男性の素性とその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 08:46 UTC 版)
田辺潔は1903年1月2日、北海道釧路市に生まれた。旧制第一横浜中学校(現・神奈川県立希望ヶ丘高等学校)在学中に結核に罹患して中退。その後結核は治癒したが、以後は進学せずに鵠沼の寿利の家で独学ののち、さまざまな職業を転々とする。寿利の文章によると、ある日潔は労働運動に身を投じることを寿利に告げたが、寿利が「おまえはインテリだからその資格がない」と諭すと、「まず労働者になる」と返答して出奔したという。1927年には横浜市電気局(横浜市電)の信号手となったが、翌年に争議に参加して解雇され、それ以降は活動家となり、事件当時は労農党中央執行委員で川崎市会議員の糸川二一郎に寄食しながら労働運動に携わっていた。したがって、富士瓦斯紡績の従業員ではなかった。 潔が煙突に上るに至った経緯については、争議解決のために借財までして奔走する糸川の姿を見た潔が自ら発案したとする説と、別の労農党中央執行委員が争議の応援演説で「高いあの煙突の上にあがって”下りろ”というまで下りないでおったら,必ずこの争議は勝てる。そんな勇気のあるやつはいるか」という言葉に応えたという2つの説が伝えられている。いずれにせよ、潔は労農党の争議支援活動の一環として煙突に上ったことには違いがない。 潔は退院後の11月28日に住居侵入罪で検束され、1931年2月に懲役3年・執行猶予3年の判決を受けた。釈放後は労農党の演説会で弁士として活動したりしたが、やがて労農党から離れて日本共産党系の日本労働組合全国協議会(全協)にかかわって活動をしていたという。 富士瓦斯紡績争議から約2年後の1932年末に行方不明となり、1933年2月14日朝、横浜市中区の山下公園の堀から遺体となって発見された。事故死として報じられたが、当時の共産党機関紙「赤旗」第122号(1933年2月28日)は、潔が1月に伊勢佐木警察署に逮捕された後、拷問を受けて「虐殺された」と伝えている。 争議の舞台となった富士瓦斯紡績川崎工場は、1939年に東京電気(現・東芝)に売却ののち、太平洋戦争中の川崎大空襲で焼失し、跡地は川崎競馬場になっている。
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