甲佐同盟の影響
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関東においては佐竹氏らの諸勢力は後北条氏に対し敵対していたが、安房国の里見氏は天正5年に北条氏と和睦していた。佐竹氏は天正9年には甲佐同盟を背景に里見氏に対して武田氏との同盟をもちかけており、同年6月に武田方から甘利昌忠が使者として派遣されている。佐竹氏は案内役として三橋宗玄を派遣しているが、昌忠は往路において何らかの事情により里見領に入国できなかったと考えられており、実際の同盟交渉は三橋宗玄により行われ、同年10月頃には勝頼と里見義頼との間で同盟関係が成立している。 武田氏は甲佐同盟と関東諸族との同盟拡大により後北条氏に対抗し、一方で勝頼は信長との和睦を試みている(甲江和与)。甲江和与の展開に際して、甲越同盟は上杉氏が織田氏と手切となっていたため、天正3年以降に信長との外交関係があった佐竹氏が仲介し、勝頼は佐竹義重を通じて織田氏との和睦を試みていたと考えられている。 甲佐同盟を背景とした甲江和与は天正7年には開始されており、勝頼は武田家に人質として存在していた織田信房を返還し、信長養女・龍勝院の出子である嫡男信勝に家督を譲り後見の立場となるなど和睦は一定の進捗を見せている。一方で、後北条氏では甲江和与に対抗して信長への服属交渉を行っており、信長はこれを受諾している。 勝頼は長篠敗戦後に甲越同盟・甲佐同盟を成立させ、甲佐同盟は対後北条氏の軍事同盟として機能し、佐竹氏を通じた甲江和与を展開している。一方で織田氏に対抗する軍事同盟であった甲越同盟は相互の出兵が確認されず、甲江和与の交渉に関して上杉景勝は武田氏に対して懸念を示している。こうした経緯か天正10年(1582年)に織田・徳川連合軍は甲斐への本格的侵攻を開始し、武田氏は滅亡した。 佐竹氏は武田氏の滅亡、本能寺の変による織田信長の横死後において、関東の諸氏族とともに奥州において台頭した伊達氏に対抗し、地域勢力として命脈を保っている。中央で織田家臣の羽柴秀吉(豊臣秀吉)が台頭すると秀吉の後北条氏征伐(小田原征伐)に参陣し所領を安堵され、関ヶ原の戦いを経て近世大名として存続している。
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