現実界と言語
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/17 05:23 UTC 版)
「現実界・象徴界・想像界」の記事における「現実界と言語」の解説
ラカンによれば、現実とはけっして言語で語り得ないものであるが、同時に人間は現実を言語によって語るしかない、という一見逆説的なテーゼが成り立つ。 一般的な理解のために単純化したモデルで例を示すと、たとえばある大事件に遭遇した人々は、口々にその事件を語る。これは、その大事件という現実を、言語という象徴的なものを以って描き出そうとしているわけである。ある証言者は、事件の決定的瞬間を語るかもしれないし、別の証言者は、事件の背景に隠された事情を語るかもしれない。こうして、あらゆる角度から証言がなされ、これらを集めてマスコミは「事件の全容を解明しよう」とする。しかし、その事件をすべての角度から語り尽くすのは、不可能である。現場にいたマスコミであっても、事件の一部分を体験していたに過ぎないのであり、言葉では事件をあくまでも断片的に大雑把に伝えることしかできないのである。 同じように、どうがんばっても言葉だけでは現実そのものを語ることはできない。「言語は現実を語れない」のである。ところが、同時に人は「言語でしか現実を語れない」。これら二つの命題は、平板に見れば矛盾しているかのように聞こえるが、どちらも的を射ているようにも思える。ラカンは、この現実界の性質をメビウスの輪のような立体的な論理として紹介する。 「言語との出会い」は、現実をラカンのいう「不可能なもの」(仏: l'impossible)に変える。われわれは一生、現実に触れるということに対する抵抗とあこがれの間で揺れ惑う。しかし、人が事後的に現実を垣間見「てしまった」り、現実に触れ「てしまった」りすることがある。たとえば、それは狂気である。ラカンは、精神病を条件づける要因として、このことを見出した。また、ラカンは、人はすべて世俗的な価値体系を脱すると思われる「死ぬ瞬間」にも現実が見えるのではないか、とも言っている。
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