王立地理学会とは? わかりやすく解説

王立地理学会

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/12/11 20:37 UTC 版)

ジョセフ・トムソン (探検家)」の記事における「王立地理学会」の解説

1878年大学卒業すると、トムソンは、王立地理学会がダルエスサラームからニアサ湖マラウイ湖)とタンガニーカ湖へのルート探索のために組織したアレクサンダー・キース・ジョンストン率い探検隊に、地質学者博物学者として加わった。この探検行の途中でジョンストン死亡しトムソン一行指揮執ることとなったトムソンは、14カ月に及び3,000マイル踏破したこの遠征成功導き多数標本持ち帰るとともに多数観察記録残した1883年には、王立地理学会が組織したアフリカ東岸からヴィクトリア湖北岸に至るルート探索する探検隊加わった当時イギリス帝国商人たちは、敵対する恐れの高いマサイ族や、競合関係にあったドイツ帝国商人たち避けて通るルート求めていた。この探検隊は、競合しドイツグスタフ・A・フィッシャードイツ語版)の探検隊より出発数ヵ月遅れたトムソンリーダーシップは、この探検成功させ、有効なルート確立するとともに数多く重要な生物学的地質学的民族誌観察記録残したが、途上試みたキリマンジャロへの日帰り登山には失敗した。しかし、帰路トムソンは、アフリカスイギュウ襲われ負傷しこのためマラリア赤痢罹患してしまった。 やがて回復したトムソンは、1884年11月の王立地理学会の会合で、自身経験について語り翌年には学会から金メダル創立者メダル)を授与された。彼の著書『Through Masai Land』は、1885年1月刊行されると、ベストセラーとなった。この本を真っ先読んだ読者一人は、まだ無名だったヘンリー・ライダー・ハガードであったハガード想像力は、トムソン探検によって点火され程なくしてハガードソロモン王洞窟 (King Solomon's Mines)』が書かれた。トムソンはこれに激怒したトムソンは、赤道直下ありながら冠雪している山々についての最初信憑性の高い報告をなし、マサイ族戦士たち相手自分義歯外して見せ自分魔法使いと言って恐れさせた。『ソロモン王洞窟』の作中でも、登場人物ひとりであるグッド海軍大佐 (Captain Good) が、これと全く同じように、山に登ってに出くわし、また、歯を外して見せてククアナ族 (the Kukuana tribe) を怯えさせていたのであるトムソンは、自分でも小説書きUlu: an African Romance』として刊行したが、こちらはさっぱり売れなかった。

※この「王立地理学会」の解説は、「ジョセフ・トムソン (探検家)」の解説の一部です。
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