独露の進出阻止
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 17:57 UTC 版)
1897年に山東省でドイツ人カトリック宣教師が殺害された事件を口実に、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世率いるドイツ軍が清に出兵し、膠州湾を占領し、そのまま同地を租借地として獲得した。これについてソールズベリー侯爵ははじめドイツがロシアの南下政策に対する防波堤になるだろうと考えて歓迎していたが、ヴィルヘルム2世が山東半島全体をドイツ勢力圏と主張しはじめるに及んでドイツへの警戒感も強めた。 1898年に入るとロシアが遼東半島の旅順を占領し、さらに大連にも軍艦を派遣し、清政府を威圧してそのまま旅順と大連をロシア租借地とした。これに対抗してソールズベリー侯爵はこれまでの「清国の領土保全」の建前を覆して、清政府に砲艦外交をしかけて、「ロシアが旅順占領をやめるまで」という期限で山東半島の威海衛をイギリス租借地とした。同時にドイツが露仏と一緒になってこの租借に反対することを阻止するために山東半島をドイツ勢力圏と認めたが、これはイギリス帝国主義にとって最も重要な揚子江流域にドイツ帝国主義が進出していくことを容認するものであり、イギリスにとって大きな痛手だった。植民地大臣のジョゼフ・チェンバレンはこの年、イギリスが「光栄ある孤立」の政策を続ける限り、清国の運命はイギリスの利益と願望に反したかたちで決まるだろうと演説し、クリミア戦争のときのように、いずれかの強国と軍事的に連盟することが今後必要になるはずだと訴えた。 1899年に入った頃にはロシア帝国主義の満洲と北中国全域の支配体制はより盤石なものとなっていた。ロシアがこの地域に関税をかけるのも時間の問題だった。さらに1900年に起こった義和団の乱に乗じてロシアは満州を軍事占領した。ロシアは満州からの撤兵の約束をしたが、なかなか撤退しようとせず、むしろ南の朝鮮半島にも触手を伸ばすようになった。これにイギリスと日本は警戒を強め、両国の間に対ロシアという共通の紐帯ができた。
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