独占的地位からの後退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/20 15:21 UTC 版)
義満による優遇策で全盛期を迎えた後も、続く4代将軍足利義持の代以降に、応永21年(1414年)に大山崎神人の諸役が免除されており、文安元年(1444年)には大山崎神人が再び摂津天王寺や道祖小路、近江小脇・播磨中津河の散在商人の新儀油商売の非を訴え、康正3年(1457年)には大山崎神人の荏胡麻商売と問丸職が安堵されているなど、幕府との癒着は続くように見えた。 しかし、天台座主経験者という異様な経歴を持つ6代将軍足利義教は、寺社の宗教的権威による強引な訴訟という圧力を毛嫌いし、宝徳3年(1451年)に延暦寺が嗷訴を起こした際にもこれを棄却し、今後は確かな証拠に基づいて審理を行うと通告するなど、将軍権力の独裁化を進めて宗教的権威に屈しない姿勢を見せ始めた。続く8代足利義政も興福寺・東大寺など南都七寺が幕府の裁許遅延に抗議して閉門嗷訴した際にこれを全く無視するなど、神威が効果を持たない時代に突入しつつあった。やがて寺社勢力も神仏の威に頼らず武力を持つようになる。応仁の乱前後から、幕府文書の宛先に「大山崎神人中」と並んで「大山崎諸侍中」が登場してくるのである。しかし神威の誇示という問答無用の手段で権益を拡大していた集団が、武力を頼る存在になったことは、各地に平凡にみられた国人や地侍らと変わらぬ存在に移行することも意味した。実際、応仁・文明の乱に際しては大山崎の侍は積極的に東軍に加担し、赤松政則や畠山政長などから感状を受けるなど、守護権力どうしの争いに自ら巻き込まれていったのである。
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