牧師としての立場(特にセクシュアリティについて)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/23 21:37 UTC 版)
「平良愛香」の記事における「牧師としての立場(特にセクシュアリティについて)」の解説
平良牧師は、「神様がつくったものに不良品はない」と語り、同性愛者も異性愛者も変わりなく、同様に祝福されるとしている。しかしキリスト教内では、そもそも同性愛自体認められないとする考え方、その傾向は認めるが行為は認めないとする考え方、また信者が同性愛者であることは受け入れられるが、牧師・司祭が同性愛者であることは容認できないとする派などもあり、それぞれに主張を展開している。一方、特に近年の先進諸国では、同性愛は異性愛と同じく個々人の生まれもった性質であり、人間性を損ねる可能性のある性的逸脱や性的放蕩と同一視すべきではないこと、また、同性愛を含むセクシュアルマイノリティは長年にわたり不当な偏見・差別を受けてきたという理解が一般に広まりつつある。 日本においては、同性愛者の勉強会グループが、東京都の公共施設を利用しようとした際に、まさに同性愛者であるという理由で利用拒否されたことをめぐって裁判が争われ、一審(1994)、二審確定(1997)とも、原告である勉強会グループが勝訴し、利用拒否した都側が厳しく批判された。この事件の直接的な原因の一つに、同施設を利用するキリスト教青年団体によるいやがらせ、また彼らによる聖書を用いた同性愛者に対する断罪があった。このキリスト教青年団体の言動は、「聖書によれば同性愛は罪。聖書の言うところをそのまま受け入れなければならない」とする立場を体現するもので、キリスト教内にはこのような見方も根強く存在している。しかし、古代の諸文献の丹念な調査や、最新の古代宗教史研究などにもとづいて、「聖書によれば同性愛は罪」は、一つの解釈にすぎず、聖書には同性愛を断罪する内容は書かれていないとする研究者も少なくない。 平良牧師は、こういった聖書理解について、聖書には身体障害者をけがれとする記述や、奴隷制を容認または肯定する記述などもあるが、キリスト教には、それらを克服してきた歴史がある。たとえ聖書に同性愛などのセクシュアリティに対して、否定的な部分があったとしても、キリスト教は、これを乗り越えてゆくことができるはずだとしている。
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