牧師としての初期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/05 07:41 UTC 版)
「ヘンリー・ウォード・ビーチャー」の記事における「牧師としての初期」の解説
1837年8月3日、ビーチャーはユーニス・ブラードと結婚し、インディアナ州ローレンスバーグという小さく貧しい町に移った。そこでは第一長老派教会牧師の職を提案されていた。このとき長老派教会は原罪と奴隷制度の問題で分かれた「新学派」と「旧学派」との間の論争に巻き込まれ、初めて全国的な注目を受けた。父のライマンは新学派の指導者だった。旧学派のライマンの敵が、ヘンリーが彼らの見解に同意する誓いを拒んだ後で、ローレンスバーグの牧師として公式に確認するのを止めた。その結果の議論は長老派教会西部を分けて競合する会派にした。 ヘンリー・ビーチャーのローレンスバーグの教会は会派からの独立を宣言して、ビーチャーを牧師として保持していたが、1837年恐慌に続く貧困によって、新しい地位を探させることになった。1839年、銀行家のサミュエル・メリルがビーチャーをインディアナポリスに招き、1830年5月13日にはそこの第二長老派教会の牧師の職を提供した。ビーチャーは当時としては異常な演説者として、説教するときに方言や俗語を用いるなどユーモアのある形式ばらない言葉を使うことになった。その説教は大きな成功となり、第二長老派教会を市内でも最大の教会とし、近くのテレホートでは伝道集会も成功させた。しかし1847年、山積みする負債によってビーチャーは新たな地位を再度求めることになり、実業家ヘンリー・ボウエンからニューヨーク市ブルックリンの新しいプリマス教会の長に招かれた。ビーチャーの全国的な名声は高まり続け、巡回講義に出て、国内でも最大級に人気のある演説家となり、それに応じて高い講演料を要求するようになった。 ビーチャーはその説教を続けていく過程で父ライマンの理論を拒絶するようになった。すなわち、「人間の運命は神の計画によって定められているという古い信仰と、理性ある男と女の能力で罪深い方法の社会を浄化するという信仰を結びつける」という理論である。ビーチャーはその代わりに「愛の福音」を説き、人間の罪深さよりも神の絶対的な愛を強調し、地獄の存在を疑った。父の言う様々なレジャー活動は神聖な生活から気持ちを逸らすものとして禁じる考え方も拒否し、その代わりに「人間は楽しみのためにできている」と述べた。
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