牡丹の流行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 20:52 UTC 版)
牡丹は当時の世界で最も花卉園芸が盛んであった唐において代表となる花であった。 牡丹は、武則天によって、郷里の太原から長安に移植され、洛陽に遷都した時に移され、次第に全国に伝わったとされる(ただし、発見されている牡丹の野生種は中国西南の山地が中心である)。また、武則天が、古来からの名である「木芍薬」から「牡丹」に改名したとも伝えられる。牡丹はまた「富貴花」とも呼ばれ、「百花王」ともうたわれた。 玄宗時代に、牡丹は爆発的に流行し、唐代の終わりまで流行は絶えなかった。玄宗は興慶宮の沈香亭に植えられた牡丹を楊貴妃とともに観賞することを好み、華清宮にも植えていた。文宗も牡丹を好み、中唐以降では、漢詩の「花」は牡丹を指した。 長安では、牡丹の盛んな時期には、人々が牡丹を求めて、20日間ほど長安中の名所を車馬や徒歩で行き来した。また、毎年3月5日に牡丹を陳列し、街の人を招いて、見栄えの良さが競われた。長安の人々は牡丹のために狂奔して金を惜しまず、珍奇な牡丹は数万銭をすることもあった。牡丹の花で知られた官僚や武将の屋敷も存在し、破産するものもあったと伝えられる。そのために園芸業が繁盛した。 長安の牡丹の名所は、慈恩寺、西明寺、崇敬寺などが知られていた。慈恩寺の牡丹は場所によって、長安で一番初めに咲き、また、最後に咲いたと伝えられる。西明寺は、牡丹の時期には寺の一部が開放され、唐代を通じて最も良く知られていた。官庁でも牡丹が植えられ、名所になることもあった。総じて、紫色、紅色の牡丹が好まれ、後に黄牡丹が現れ、白い牡丹は人気が薄かったとされる。
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