燕に仕官する
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/19 09:03 UTC 版)
趙滅中山の戦い(中国語版)で中山が趙の武霊王に滅ぼされた後に、一旦趙に入ったが、紀元前295年に国内の紛争で武霊王が息子の恵文王に殺される事件が起きると、魏に移った。魏の昭王の家臣になるが、燕の昭王が人材を求めていると聞いて、昭王に頼み燕への使者になり、そのまま燕で仕官した。昭王は楽毅の才能に着目し、彼を上卿に次ぐ亜卿に任じた。 この少し前に燕は斉により一度滅びかけており、この当時太子として辛酸を舐めた昭王は斉に対して強い恨みを抱いていた。国王に即位して20数年間、天下から人材を募り(これは郭隗が昭王に進言し、「まず隗より始めよ」の語源となった)、臣民と労苦を分かち国の再興に努めたものの、当時の斉は西の秦と並ぶ戦国最強国であり、最盛期を迎えていた。戦国四君の一人である孟嘗君を宰相とし、中山・宋を滅ぼし、楚・三晋を破り、泗水沿岸の魯などの諸侯は事実上属国となり、一時は秦と一緒に「王」より上位である「帝」を名乗っていた。このように燕は当時桁外れの力を有していた斉とは国力でも軍事力でも比べ物にならなかった。しかしそれでもなお恨みを晴らしたいと言う昭王の意向に対し、楽毅は他国と連合して斉に当たるべしと説いた。 当時の斉王は湣王であり、とかく傲慢で知られた王で、斉の国力を背景に小国に対して恫喝的な外交を布いていた為、他国の恨みを買っていた。これに楽毅はつけこみ、まず趙を説得し、魏と韓を引き入れ、趙の友好国である秦も引き入れた。
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