燕の建国と首都薊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 14:25 UTC 版)
「燕」を参照 未詳~紀元前221年頃は周王朝がこの地を支配した。殷王朝(商帝国、首都は殷墟)を倒して、全中華の王朝となった周王朝の時代に、殷討伐や周の建国に功績のあった重臣・召公奭(姓は姫または姞、太公望や周公旦と並ぶ、周建国の功臣の一人で、周初で最も長く活躍し、四代の周王に仕えた、三公の一人。[疑問点 – ノート])を燕の国に封じた。この時、首都となったのが、当時「薊(けい)」と呼ばれていたと言う北京で、そこ薊を都城とし、燕王の宮廷も築かれた。この出来事が都市としての北京の出発点と言われている。 紀元前770年、犬戎の侵攻・掠奪により周が都を鎬京から洛邑に遷都、衰退し、分裂状態に陥り春秋戦国時代となった。その時、燕は好機とみて領土を拡張し、後に「戦国の七雄」と呼ばれるまでに勢力を拡大し、国力を蓄えた。特に紀元前3世紀前期に登場した昭王は、郭隗の進言を取り入れて優秀な人材集めに専念し、楽毅等の名将を得て、斉の国のほとんどを制圧するなど、強勢を誇った。しかし、子の京王(恵王)が即位すると、その強勢を誇った勢力も陰りを見せ始め、斉に占領地を次々と奪還されて衰退し、次第に勢力を失っていった。紀元前226年、太子丹は隣国の趙が秦王・政(のちの始皇帝)の軍勢により滅ぼされた事件に危機感をおぼえ、荊軻という刺客を放ったが暗殺は失敗し、怒った秦王は軍勢を差し向け、首都・薊を陥落させ、紀元前222年、北方に落ち延びていた燕王をとらえ、遂に燕は滅亡した。
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