燕の楽毅に攻められる
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/13 09:36 UTC 版)
楚は国が裂かれ、趙・魏・韓・燕は領土を奪われ、泗水沿岸の魯などの諸侯は事実上属国になり、秦も斉の強大化に危機感を抱き始めるなど、湣王は他国に大きく恨まれていた。特に父王を斉に殺された燕の昭王は恨みが高く、各国から人材を集め斉を攻めるため楚・趙・魏・韓・秦と同盟を計っていた。 紀元前284年、燕の楽毅が率いる5カ国の連合軍が斉を攻め、斉は済西で打ち破られ、首都臨淄も陥落し、これまで蓄積した財宝・資材すべてを燕に奪われる。 それから、斉の70余の城を次々と落とされ、各城の太守が楽毅の勢いに驚き降伏してしまうほどであった。斉は最終的に莒・即墨の2城だけを残すだけになった。 湣王は楽毅の軍勢に対し、2城で抵抗を続けるが、楚が援助に使わして将軍になっていた淖歯によって殺されてしまう。 その後、湣王殺害に怒った民衆により淖歯が殺され、湣王の子の法章(襄王)が擁立されて即位した。
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