焼き討ちの後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/18 03:54 UTC 版)
当時のアメリカ人観察者、特に反戦の連邦党系新聞が無用な野蛮行為として公的建築物の破壊を非難した。イギリス大衆の多くはワシントンの議事堂やその他政府の建物を燃やしたことで衝撃を受けた。そのような行動をヨーロッパ大陸の指導者の多くが非難した。「ジ・アニュアル・レジスター」に拠れば、焼き討ちが「イギリスの品位に重い批判をもたらしたのであり」、反体制議員サミュエル・ホワイトブレッドなど議員に幾らかが批判する側に回った。 イギリス世論の大半は、この焼き討ちがアメリカ合衆国の軍隊がカナダで行った略奪の後だけに正当化されると考えた。さらにアメリカ合衆国は侵略者であり、宣戦布告し、戦争を始めたとも言っていた。評論家は1813年初期にアッパー・カナダ植民地の首都ヨークで、アメリカ軍が議会の建物など公的建造物を破壊したことへの報復として、ワシントンに与えた損傷を見ていた。ジョージ・プレボスト卿は「まさに返礼として、誇るべきワシントンの首都が同じような運命を経験した」と記していた。ヨークの牧師だったジョン・ストラチャン牧師はそこでのアメリカ軍の行動を目撃しており、トーマス・ジェファーソンに宛てて、ワシントンの損傷が「カナダにおけるアメリカ軍によって行われた公的な建物だけでなく民間の資産まで焼き討ち、損壊したことへの救済が拒否された後では、小さな報復である」と書き送った。 イギリス軍が最終的にバミューダに戻ったとき、公的建物の1つで見つけた国王ジョージ3世とその妻シャーロット・ソフィア王妃の肖像画2枚を持ち帰っていた。この時からバミューダ議会にその肖像画が飾られることになった。
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