無知と純粋さ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 04:46 UTC 版)
旧約聖書の創世記においてエデンの園を追われる以前のアダムとイヴがそうであった様に、無知は必ずしも悪徳とはされない。無知とはある意味では純粋さの象徴であり、蛇の言葉に従って知恵の実を口にしたアダムとイヴは神の言い付けに背くとともに楽園の住人の資格である純粋さを失ったのである。ギリシア神話でプロメーテウスが人間に火を与えたためにその身を苛まれることとなったのは、一方から見れば無知が美徳ですらあるためである。 近代においてもヨーロッパと非ヨーロッパの接触が生まれたころの「高貴な野蛮人」といったモチーフにこの考え方を見ることができる。植民地化が本格化する以前、ヨーロッパの知識人たちは自分たちの「文明」を非ヨーロッパの「野蛮」と対比させ、そこに自分たちが失ってしまったある種の純粋さを見いだしていた。 また、無知であることは先入観や偏見から自由であることをも意味する。子供は大人に比べて無知であるから、そのようなものに縛られなくてすむ。たとえば「裸の王様」が裸であることは誰の目にも明らかだったが、予備知識を与えられていた大人にはそれが言えず、子供の発言を待たねばならなかった。 科学の分野でも、古い学説を知っているとそれに縛られて目の前の現象をも見落とす例がある。ファーブルは『昆虫記』でそのような例にいくつもふれている。その一方でカイコの病気を研究にきて、基礎知識を彼のところに求めてやってきたルイ・パスツールについて、あまりの無知に驚くとともに、そうであるからこそ新しい挑戦ができるのだと褒めたたえている。
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