滋野姓の起源
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滋野氏は『尊卑分脈』には記載されておらず、吉川弘文館刊行の『日本古代氏族人名辞典』[要文献特定詳細情報]によると「滋野氏は、紀(直)氏と同系氏族」とされており、紀伊国造と同系の楢原氏が最初と思われる。『続日本紀』によれば天平勝宝元年(749年)に東人が伊蘇志臣を賜り、延暦17年(798年)に東人の孫家訳が滋野宿禰を賜り、弘仁年間に朝臣に改めた。 後年に海野氏の嫡流を称した真田氏が『寛永諸家系図伝』作成に際し提出した系図では、清和天皇の子貞秀親王が滋野氏の初代であり、その子幸恒が海野小太郎を称したとしていた。しかし新井白石などに貞秀親王が架空の人物であることや、滋野氏は清和天皇以前に現れていたことを指摘されている。その後に作成した享保年間までの当主を記載した真田氏系図では、初代の名前は貞元親王としている。『寛政重修諸家譜』編纂の際でも真田家側は同様の主張を行っているが、幕府側から貞秀親王の存在や、親王の子が小太郎であることが不審であるとされ、幸恒から系図を書き出すこととなった。また明治時代の華族における宗族制度では、滋野氏は14類とされ、清和天皇の子である貞保親王の孫・滋野滋氏を祖としている。 @media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}信濃滋野氏の系図は、海野氏や根津氏・望月氏の三家やその支族に伝えられたもの(この時点で信頼性に疑問符が付く)しかなく、その多くは戦国期に散逸している。[要出典]戦国期を生き抜き近世大名として立藩した根津氏や海野氏流を自称する真田氏などの資料も、信頼性が疑問視されている。検討が必要であるが、根津氏支族とされる浦野氏の浦野文書には同じ家でありながら複数の系図が残されており、信濃滋野氏起源の系図も存在する。同書には永禄9年(1566年)に清和天皇後胤、滋野親王26代浦野美濃守友久として絵馬を献上した記録が残され、貞保親王の孫が治療のため小県郡の沓掛温泉に滞在したと記載されている。 『続群書類従』「信州滋野氏三家系図」では、清和天皇の皇子・貞保親王と嵯峨天皇第4皇子・惟康親王の女との間に生まれた目宮王が祖とされる。
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