洗礼以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/11 09:29 UTC 版)
明治18年(1885年)5月15日、高知市中島町の森武興邸(高知教会の発祥地)においてナックス宣教師の洗礼を受けてプロテスタントとなり、10月8日、片岡健吉・坂本直寛が長老に選ばれた。 明治20年(1887年)に保安条例違反で退去命令が出されるが従わず、禁錮2年6か月の刑に処される。 明治22年(1889年)に出獄後、同23年(1890年)に第1回衆議院議員総選挙で当選。以後第8回まで連続で当選。 明治26年(1893年)、植村正久・井深梶之助(旧会津藩士)・グリナン宣教師・山田平左衛門・坂本直寛らと協力して高知県下の伝道を行った。 明治31年(1898年)から死去まで衆議院議長も務めた。 敬虔なプロテスタントで、日本基督教団高知教会の長老であり、東京YMCA(キリスト教青年会)第4代理事長でもあった。晩年、同志社第5代社長(現総長)に就任。在任中の明治36年(1903年)、腸閉塞のため召天。正四位に叙せらる。61歳没。
※この「洗礼以降」の解説は、「片岡健吉」の解説の一部です。
「洗礼以降」を含む「片岡健吉」の記事については、「片岡健吉」の概要を参照ください。
洗礼以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/23 04:31 UTC 版)
明治18年(1885年)6月28日、高知市中島町の森武興邸(高知教会の発祥地)においてミロル宣教師によって洗礼を受けプロテスタントとなる。明治20年(1887年)6月26日、片岡健吉・坂本直寛らと共に山田平左衛門が高知教会の長老に選ばれた。 明治21年(1888年)5月15日、板垣退助の長男・鉾太郎が高知県土佐郡種崎町に、私立学校泰平学校を設立し、山田平左衛門は招かれてその校長となる。開校初年度は教員13名・生徒203名であった。同校は尋常小学校卒業者を入学の対象者とし、英・和・漢・数・仏学・法律・翻訳などの教育に心血を注いだ。 明治26年(1893年)、植村正久・井深梶之助(旧会津藩士)・グリナン宣教師・片岡健吉・坂本直寛らと協力して高知県下の伝道を行った。 明治31年(1898年)3月5日、第五回総選挙に立候補し当選。土陽新聞の社長に推された。 明治39年(1906年)1月6日召天。享年62歳。人柄は重厚にして果敢、また古武士の風格を兼ね備え人望が厚かった。 墓には「土居平左衛門之墓」と刻まれている。
※この「洗礼以降」の解説は、「山田平左衛門」の解説の一部です。
「洗礼以降」を含む「山田平左衛門」の記事については、「山田平左衛門」の概要を参照ください。
- 洗礼以降のページへのリンク