波照間島でのリン鉱石探査と起業とは? わかりやすく解説

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波照間島でのリン鉱石探査と起業

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 21:19 UTC 版)

恒藤規隆」の記事における「波照間島でのリン鉱石探査と起業」の解説

1928年3月与論島でのリン鉱石調査時に立ち寄った那覇で、恒波照間島リン鉱石採れるとの話を聞きつけた。更に翌1929年2月3月波照間島産のリン鉱石標本入手し、恒相当量リン鉱石埋蔵されていると判断した。恒同年5月波照間島でのリン鉱石採掘事業起業のため、肥料鉱物調査組合立ち上げる。翌6月には恒自らが南礼らを伴って波照間島リン鉱石調査行った。この時も300余り標本持ち帰り、恒から分析迅速に行うよう命じられた南が、やはり昼夜兼行分析行った。 恒波照間島でのリン鉱石資源調査継続させ、自らも1931年3月1934年1月、そして1935年3月波照間島赴いている。この間当初は恒協力していた人物鉱業権問題訴訟となり、1932年11月大審院で恒勝訴確定した波照間島ではラサ島のような優良なリン鉱石発見されなかった。しかし恒リン含有し石灰石大量に埋蔵されていると判断した。そして含リン石灰岩トーマス転炉での製鉄使用することにより、副産物としてトーマス燐肥生産できる考えたのである。恒トーマス燐肥原料となるリン資源は、日本国内では波照間島上回る産地は無いと断言した1934年10月波照間島リン鉱石採掘のために桟橋、貯鉱場、乾燥場、運搬用の軌道など、鉱山設備建設始まり1935年4月にはおおむね完成した。しかし恒開始した波照間島でのリン鉱山経営は上手く行かなかった。最終的に波照間島リン鉱石鉱区は恒側の他に朝日化学取得し、島を二分するような鉱山開発競争となった朝日化学側は相当の生産量挙げることが出来た反面、恒側は鉱床続かず事業放棄追い込まれた。

※この「波照間島でのリン鉱石探査と起業」の解説は、「恒藤規隆」の解説の一部です。
「波照間島でのリン鉱石探査と起業」を含む「恒藤規隆」の記事については、「恒藤規隆」の概要を参照ください。

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