波照間島でのリン鉱石探査と起業
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「恒藤規隆」の記事における「波照間島でのリン鉱石探査と起業」の解説
1928年3月、与論島でのリン鉱石調査時に立ち寄った那覇で、恒藤は波照間島でリン鉱石が採れるとの話を聞きつけた。更に翌1929年2月、3月と波照間島産のリン鉱石の標本を入手し、恒藤は相当量のリン鉱石が埋蔵されていると判断した。恒藤は同年5月、波照間島でのリン鉱石採掘事業の起業のため、肥料鉱物調査組合を立ち上げる。翌6月には恒藤自らが南礼蔵らを伴って波照間島でリン鉱石調査を行った。この時も300個余りの標本を持ち帰り、恒藤から分析を迅速に行うよう命じられた南が、やはり昼夜兼行で分析を行った。 恒藤は波照間島でのリン鉱石資源調査を継続させ、自らも1931年3月、1934年1月、そして1935年3月と波照間島へ赴いている。この間、当初は恒藤と協力していた人物と鉱業権の問題で訴訟となり、1932年11月に大審院で恒藤の勝訴が確定した。 波照間島ではラサ島のような優良なリン鉱石は発見されなかった。しかし恒藤はリンを含有した石灰石が大量に埋蔵されていると判断した。そして含リン石灰岩はトーマス転炉での製鉄に使用することにより、鉄の副産物としてトーマス燐肥が生産できると考えたのである。恒藤はトーマス燐肥の原料となるリン資源は、日本国内では波照間島を上回る産地は無いと断言した。 1934年10月、波照間島のリン鉱石採掘のために桟橋、貯鉱場、乾燥場、運搬用の軌道など、鉱山設備の建設が始まり、1935年4月にはおおむね完成した。しかし恒藤が開始した波照間島でのリン鉱山経営は上手く行かなかった。最終的に波照間島のリン鉱石の鉱区は恒藤側の他に朝日化学が取得し、島を二分するような鉱山開発競争となった。朝日化学側は相当の生産量を挙げることが出来た反面、恒藤側は鉱床が続かず事業放棄に追い込まれた。
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