河野與一とは? わかりやすく解説

河野与一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/03 14:02 UTC 版)

河野 与一
人物情報
生誕 (1896-09-12) 1896年9月12日
日本神奈川県
死没 1984年7月6日(1984-07-06)(87歳没)
出身校 東京帝国大学
学問
研究分野 哲学
研究機関 東北帝国大学
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河野 与一[1](こうの よいち、1896年明治29年)9月12日 - 1984年(昭和59年)7月6日)は、日本哲学者翻訳家。元東北帝国大学教授。

経歴

出生から修学期

1896年、神奈川県で生まれた。神戸で育ち、神戸一中から東京帝国大学哲学科に進み、卒業。

哲学研究者として

卒業後は、暁星中学校に教諭として勤務。その後、第三高等学校教授、法政大学教授を経て、1927年に東北帝国大学助教授に就いた。1946年に教授昇格。戦後の1950年、東北帝国大学を退官して岩波書店の顧問として迎えられた。

多数の言語に通じ、フランス文学哲学西洋古典語を講じた。1957年、『プルターク 英雄伝』の原典訳で読売文学賞に選ばれたが、受賞を辞退した。また『アミエルの日記』の全訳も、河野一人が成し遂げた。1984年に死去。

家族・親族

著作

著書
訳書

その他

  • 「プラトーン」・「アウグスティーヌス」、岩波書店 編『岩波講座 世界思潮』 第4冊、岩波書店〈岩波講座〉、1929年。 
  • 「デカルト」、岩波書店 編『岩波講座 世界思潮』 第5冊、岩波書店〈岩波講座〉、1929年。 
  • 「現代仏蘭西哲学」上・下、岩波書店 編『岩波講座 哲学』 第8、岩波書店〈岩波講座〉、1932年。 

関連事項

参考文献

脚注

  1. ^ 旧字体表記では「河野與一」
  2. ^ 多麻夫人は、与一が死去した半年後の1985年1月に失火による火事で亡くなった。
  3. ^ 音声録音とメモから起こした講義録。

河野与一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/04 17:38 UTC 版)

どくとるマンボウ青春記」の記事における「河野与一」の解説

哲学教授斎藤茂吉頼まれ北杜夫医学生としての保証人となる。

※この「河野与一」の解説は、「どくとるマンボウ青春記」の解説の一部です。
「河野与一」を含む「どくとるマンボウ青春記」の記事については、「どくとるマンボウ青春記」の概要を参照ください。

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