水難事故の経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/07 07:52 UTC 版)
事故当日の午後0時45分(第5時間目)、さつきは野外写生の指導のため、受け持ちの生徒56名を引率し、学校から約600メートル離れた万歳河原と呼ばれる白石川河畔へと向かった 。 当日は暑く、学校日誌には華氏85℃(摂氏29℃)と記録されている。また、事故の一昨日前までは梅雨で数日間雨が降り続いており、川は増水していた。川幅は100メートルほどで、岸から20-30メートルは浅瀬になっていたが、対岸の流れは速く、川の中程からは川底が砂地になっており、水深が深くなっていた。 写生の指導中に、一部の男子生徒が水遊びをしたいとせがんだ。さつきは初めそれを許可しなかったが、写生が終わってから浅瀬で足だけを浸して遊ぶことを許可した。 さつきはその後も写生の指導を続けていたが、第5時間目が終わりに近づいたころ、川の方から生徒の助けを呼ぶ声を耳にした。事故で溺死した成沢与右衛門を含む3名の生徒が、誤って川の深みに嵌って溺れかけていた。そこで小野は下駄と白足袋を脱ぎ、袴の裾を捲りあげて着衣のまま川へ飛び込んだ。 溺れかけた生徒のうち2名は救助できたが、生徒を引き上げた際に捲っていた裾が下がったため、さつきは身を軽くするために単衣になろうとした。しかし紐が水に浸かって固くなったため、解くことができなかった。児童の成沢がさらにその先に流されていたので、さつきは下がった袴の裾をそのままに、再び川へと向かった。教え子の2名の生徒がそれを制止しようとしたが、それを振り切って川の中へと飛び込んだ。成沢与右衛門を探すうち、解けた袴の裾が頭に被さり、さつき自らも深みに足を取られた。さつきは生徒に学校へ知らせるよう叫び手を振ったが、それを最後に川の中へ飲み込まれた。当時さつきが身に着けていた懐中時計は1時36分で停止している。 午後1時50分頃、数名の生徒が学校へ駆けつけた。知らせを受けた職員一同や村民は現場へと急行し、捜索が開始された。さつきが川に沈んでから約30分後、生徒が指し示した地点から約70メートル下流の地点でさつきが川底から発見された。成沢与右衛門はさらにその約40分後、さつきが発見された地点から約40メートル上流で発見された。 発見から約3時間半の間、村民と医師による人工呼吸が交代で続けられたが、息を吹き返すことは無かった。午後5時40分、小野さつき及び成沢与右衛門両名の遺体が職員室に運ばれ、哀悼式が行われた。午後7時、両名の遺体は各々の自宅へと運ばれた。
※この「水難事故の経緯」の解説は、「小野さつき」の解説の一部です。
「水難事故の経緯」を含む「小野さつき」の記事については、「小野さつき」の概要を参照ください。
- 水難事故の経緯のページへのリンク