民話「つり天井」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/27 03:00 UTC 版)
「宇都宮城釣天井事件」の記事における「民話「つり天井」」の解説
宇都宮市では、吊り天井の仕掛け作りに関わった若き大工と庄屋の娘の恋物語を付け加えた「つり天井」という民話が語り継がれている。この民話は、徳川秀忠が宇都宮城に泊まる予定を急きょ変えたことと、その直後に本多正純が改易になった史実を基に創作されたと考えられる。この民話に登場する「殿様」は史実通り、本多正純として語られるが、「将軍様」は徳川秀忠ではなく、徳川家光として語られることが多い。 語り・その1 「 昔々、江戸時代は初期の頃、宇都宮の近在の村に、与四郎という気立てが良く、腕のいい大工がいた。庄屋に気に入られた与四郎は、その娘・お早との結婚が決まった。ある日のこと、与四郎は庄屋から「日光東照宮に参る将軍様がお泊まりになる部屋を造るのにお前が選ばれた」と知らされ、宇都宮城に上った。城には下野国中から選ばれた30人ほどの大工が集められ、連日連夜豪華な食事が振る舞われた。しかし城外に出ることは固く禁じられ、与四郎はお早に会いたくて仕方がなかった。将軍様の部屋は1か月もせぬうちに完成したが、集まった大工の中から特に腕のいい10人が選抜され、将軍様の湯殿を造ることになった。与四郎はそのうちの1人に選ばれたが、お早に会えないことがとても辛かった。ある時、与四郎は大工仲間の留吉から、お殿様は湯殿の上に吊り天井を仕掛け、将軍様を亡き者にしようとしているという話を聞かされる。これを聞いた与四郎は夜中に城を抜け出し、お早のいる庄屋の家へ駆け込んだ。再会を喜び合う与四郎とお早は夜が明けるまで話し続け、朝を告げる鳥の声を聞くと、お早に吊り天井の図面を託し、城へ駆け戻った。 城に戻ると与四郎はその場で首をはねられてしまい、湯殿の完成を待って、残った大工も1人残らず命を奪われた。その噂は城下を駆け巡り、お早の耳にも届いた。お早は悲嘆に暮れ、先立つ不孝をつづった手紙と吊り天井の図面を残して井戸に身投げした。変わり果てた娘の姿を見た庄屋は泣き明かし、娘の残した手紙と図面を握り締め、いちもくさんに駆け出した。吊り天井のことを将軍様に伝えるためである。雀宮宿で将軍様ご一行に出会った庄屋は書状を差し出し、急を告げた。 吊り天井のことを知った将軍様ご一行は江戸へ引き返し、後ほど宇都宮城を取り調べた。すると、吊り天井と大工の遺体が見つかり、殿様は城を取り上げられて、秋田の由利に押し込められたのだと。 」 語り・その2 「 本多正純は、徳川家光の弟である徳川忠長(駿河大納言)の幼少期のお守り役を務め、3代将軍に忠長を立てたいと願ったが、将軍職には家光が就いたので残念に思っていた。そのような折に、家光が徳川家康の7回忌法要のため日光社参に訪れ、帰路に宇都宮で1泊することが決まった。正純は家臣の河村靭負(かわむらゆきえ)と謀り、吊り天井を仕掛けるべく大工を集めた。秘密が漏れぬよう、大工が城外へ出ることを許さなかった。この大工の中に与五郎という若い大工がおり、庄屋・植木藤右衛門の娘・お稲と恋仲にあった。ある夜のこと、与五郎はあまりの恋しさに城を抜け出し、お稲の元へ向かった。しかし再会は果たせず、吊り天井の完成を待って、1人残らず大工たちは命を奪われた。 お稲は与五郎の亡霊から事の顛末を知らされ、悲嘆に暮れ、与五郎の霊から聞いた話を手紙に書き残して命を絶った。娘の遺書を見つけた庄屋は、その手紙と吊り天井の図面を握り締め、いちもくさんに駆け出した。吊り天井のことを家光に伝えるためである。日光から宇都宮へ向かっていた将軍様ご一行に出会った庄屋は伊井掃部頭(いいかもんのかみ)に急を告げた。 吊り天井のことを知った将軍様ご一行は宇都宮に泊まらずに江戸へ帰り、家光は命拾いした。その後、正純は捕らえられ、処刑されたのだと。 」
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