母親の死――子守奉公・上京
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「伊藤初代」の記事における「母親の死――子守奉公・上京」の解説
1915年(大正4年)3月10日にサイが肺炎で死去したため、忠吉は、次女・マキを連れ郷里の岩手県江刺郡岩谷堂に帰って子供を実家に預け、1916年(大正5年)に岩谷堂尋常高等小学校増沢分教場(現・奥州市立岩谷堂小学校)の使丁の職に就いた。 当時小学校3年で8歳の初代は福島県若松市の叔母・キヱ(サイの妹)に預けられ、子守や使い走りなどをしながら学校に通った(なお、初代も妹・マキと一緒に岩手県に連れられて、岩谷堂尋常高等小学校に3年から4年の始めまで通っていたという同級生・小原ミヅ(旧姓・遠藤)の証言があり、一旦父と岩手に渡った後に、福島に戻ったという説もある)。成績が良く首席であった初代は、若松第4尋常小学校4年に進級する時に学校長から表彰されたとされ、その時の、小さな身体に子守の赤ん坊をおんぶしている初代の姿に、参列していた来賓者や父兄たちが感涙にむせんだというエピソードが残っているとされる。 当時、祖父・大塚源蔵の営む「大塚商店」は時代の変遷のため経営に行きづまり、1915年(大正4年)10月13日に東京府小石川区初音町9番地(現・文京区小石川)へ戸籍を移した。それにより初代も小学校を4年の始めで中退させられ上京し、口入れ屋の手で医者、弁護士、旅館、料理屋などの家で子守奉公として雇われた。東京での生活も芳しくなかった源蔵一家は、その後の1922年(大正11年)には、北海道室蘭区(現・室蘭市)に転籍していった。
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