権力とまなざし
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/08 02:52 UTC 版)
「まなざし (哲学)」の記事における「権力とまなざし」の解説
ミシェル・フーコーは権力とまなざしに関する議論に大きな影響をあたえた。フーコーが提示した3つの主な概念として、パノプティシズム、知/権力、生権力があり、これらは全て監視システムの中で自己を規制することにかかわっている。つまり、誰が、あるいは何が自分を見ているのか直接見ることができなくても、常に見られているという信念のもとで人が自らの行動を修正するということである。この監視は、実在していようがしていなかろうが、存在の可能性さえあれば人に自己を規制させる効果を及ぼす。 フーコーは『臨床医学の誕生』(1963)において、医療診断のプロセス、医者と患者の間の力関係、社会における医学知識のヘゲモニーを説明するべく、「医学的なまなざし」という概念を初めて導入した。『監獄の誕生』(1975)でも、権力装置としての監獄や学校における監視や自己規制など、さまざまな規律・訓練(discipline)のメカニズムと権力関係を明確にするために見ることと見られることの問題を探求しており、本書は「<まなざし>の権力論」を扱った代表的な書物のひとつと見なされている。この著作においてフーコーは、ジェレミー・ベンサムが提案した、中心にある監視塔から囚人が監視することができるが、囚人のほうからは自分たちが監視されているかどうか確実に見ることができない装置であるパノプティコンをとりあげ、これを「見る=見られるという一対の事態を切離す機械仕掛」であり、「権力を自動的なものにし、権力を没個人化する」するものだと述べている。フーコーのまなざし論には、フリードリヒ・ニーチェの眼に関する議論の影響があると言われている。 まなざしは人が所有したり、使用したりするものではない。むしろ人が携わる関係として定義される。マリタ・スターケンとリサ・カートライトがPractices of Lookingにおいて指摘しているように、「まなざしは知識に関する観念と力の体系に不可欠である」。
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