権力と財力の移動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/24 04:46 UTC 版)
摂関家が富みを独占しえた摂関時代から院政期に入って、富の源泉である熟国の受領任免権が摂関から院に移り、里内裏の提供も摂関家に変わって院近臣の受領層が提供する比率が増えている。そして保元の乱から平家の台頭、そして鎌倉時代となり、摂関家は五摂家へと分裂する。その後、承久の乱により公家社会全体の財力がある程度低下したし、鎌倉時代後半からの地頭請や下地中分などにより荘園からの収入は減少しつつあったが、それでも鎌倉時代の内はまだそれなりに確保出来ていた。 しかし南北朝時代の動乱が朝廷を含む公家の凋落を一気に加速する。例えば武家領の拡大があり、残った荘園についても半済令や守護請、さらに直接的な横領などによって公家社会や大寺院など荘園領主の収入は激減。さらにその後も先細りしてゆく。室町時代には足利義満から義教の頃は将軍はまだ力を持っていたが、義政の頃には守護大名の統制が効かなくなる。造営費などは守護大名に割り当てていたのでこれは将軍財力の低下でもある。そして応仁の乱から戦国時代を経て、豊臣秀吉による全国統一となる。
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