概要・生涯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/05 15:40 UTC 版)
「レオンハルト・オイラー」の記事における「概要・生涯」の解説
1707年、スイスのバーゼルに生まれる。オイラーの父も数学の教育を受けた人物であったが、オイラーには自分の後を継いで牧師になることを望んでいた。1720年にはバーゼル大学に入学し哲学を学んだが、ここで数学者ヨハン・ベルヌーイに出会って数学の才能を見出された。1724年には神学の道へと進んだものの、オイラー自身は数学に強い興味を抱いており、またその才能を見込んだベルヌーイが両親を説得したため、数学専攻へと転じることとなった。 1727年、オイラーはサンクトペテルブルクの科学学士院に赴任した。この地でダニエル・ベルヌーイの同僚となり、1733年にベルヌーイがスイスに帰った後もペテルブルクにとどまり続けた。1734年には画家ゲオルク・グゼル(英語版)の娘カタリーナ・グゼルと結婚し、1735年、バーゼル問題を解決したことで有名になった。しかし、1738年には片目を失明し、さらにロシアの政情不安によって研究生活は不安定になった。 1741年、プロイセン王国のフリードリヒ2世の依頼でベルリン・アカデミーの会員となり、ドイツへ移住した。オイラーはここでも高い業績を上げたものの、徐々にフリードリヒ2世に疎まれるようになる。彼は『無限解析入門』 "Introductio in analysin infinitorum" と『微分学教程』 "Institutiones calculi differentialis" という2冊の数学書を出版した。 また、オイラーはアンハルト=デッサウ公女の教育のために科学への入門書を執筆し、その後、『自然科学の諸問題についてのドイツ王女へのオイラーの手紙』 "Lettres à une Princesse d'Allemagne sur divers sujets de physique et de philosophie" として出版された。この本は欧米で一般の読者を対象にした科学書として広く読まれ、オイラーの最も有名な著書となった。当時、ベルリン・アカデミーにはヴォルテールもいたが、二人が親密になることはなかった。 エカチェリーナ2世が帝位についたことで、1766年にオイラーは再びサンクトペテルブルクに戻った。オイラーはここで厚遇を受けたが、1738年ごろより視力が低下し、1771年ごろ(1766年とする説もある)には両目を完全に失明したものの、その後も研究意欲が衰えることは全くなく、彼は同僚の教授たちに自分の論文を読んでもらうことで内容に間違いがないかを確認し、脳内で執筆した論文を口述筆記してもらうことで多数の論文を生産し、1783年に76歳で亡くなるその日まで精力的な研究活動を続け、人類史上最多とも言われる膨大な量の論文や著書を遺した。墓はアレクサンドル・ネフスキー大修道院にある。
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