東方会議開催とは? わかりやすく解説

東方会議開催

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/09 00:27 UTC 版)

東方会議 (1921年)」の記事における「東方会議開催」の解説

5月16日東方会議開催された。この会議原内閣閣僚及び斎藤実朝鮮総督)・水野錬太郎(同政務総監)・大庭二郎朝鮮軍司令官)・山縣伊三郎関東長官・有朋養子)・河合操関東軍司令官)・立花小一郎浦塩派遣軍司令官)・由比光衛青島守備軍司令官)・小幡酉吉中国公使)・赤塚正助奉天総領事)が出席した会議5日間(5月16日 - 18日及び20日25日)にわたって開催され、主に以下の決定なされたシベリア出兵中止してウラジオストクから撤退して極東共和国との外交交渉開始する(ただし、北樺太占領継続する)。 間島警備当面警察力により、朝鮮独立派活動活発化した場合備えて派兵準備を行う。また、満洲においても独立派取締強化する奉天軍閥張作霖支援する満洲経営の必要の範囲内留め、張の中央政権進出安直戦争奉直戦争)には加担しない。 満洲における日本利権確保方針統一のため、関東庁関東軍朝鮮総督府現地領事館南満洲鉄道などが協議を持つこと。 ロシア革命後経営悪化していた東支鉄道対す経営支援を行うとともに南満洲鉄道との直通運転強化するまた、スキャンダル噂されていた南満洲鉄道首脳部交替させて経営透明化を図る。 山東鉄道沿線からの撤兵図り将来的には青島のみの駐在留める山東鉄道中国側北京政府)との共同経営提案する北京政府対す借款西原借款のような日本単独借款避け今後はアメリカ・イギリス・フランスとの4ヶ国共同の「4ヶ国借款」に切替対華21ヶ条要求のうち、4ヶ国借款障害になるものは事実上放棄する。 この会議には参謀本部参加しなかったが、5月30日原・山縣会談によって参謀本部も同会議決定に従う事が合意された。だが、この年に原が暗殺され、また参謀本部のサポタージュもあってシベリアからの撤退計画遅延したシベリアからの日本軍撤退完了するのは翌1922年の事であったまた、同年にはワシントン会議受けて山東還付実現されている。

※この「東方会議開催」の解説は、「東方会議 (1921年)」の解説の一部です。
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