東方作戦と最期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/22 05:49 UTC 版)
「ルキウス・ウァレリウス・フラックス (紀元前86年の補充執政官)」の記事における「東方作戦と最期」の解説
一方でマリウスと敵対するスッラは、紀元前87年からバルカン半島でポントス王ミトリダテス6世と戦っていた。紀元前86年、2年連続で執政官に就任したキンナは、フラックスに2個ローマ軍団を与えて、バルカン半島に派遣した。この遠征の目的は不明である。プルタルコスとアッピアノスは、公式な任務はミトリダテスと戦うこととなっていたが、真の目的はスッラとの戦いであったと書いている。しかし現代の研究者は、スッラと戦うには兵力が少なすぎると考えている。ヘラクレアのメムノンによれば、元老院の権威を認めているのであれば、スッラと協力して戦わなければならなかったと述べている。現代の歴史学者は、もしミトリダテスと戦うのであれば、スッラがギリシアを占領している間に、フラックスは小アジアへ迂回上陸し、ミトリダテスの側面を突くべきだったと示唆している。 何れにせよ、この作戦は大失敗であった。ブルンディシウムからギリシアへ渡る際、ローマ艦隊は嵐とミトリダテスの艦隊との戦闘で大きな損害を受けた。さらには、上陸後直ぐに、先遣部隊がスッラの側に回った。スッラは自軍主力をフラックスに向かって移動させた。両軍はテッサリアのメリティア近くで遭遇したが、しばらく睨み合った後にフラックスは北方のマケドニアへ、スッラは南方のボイオティアへと軍を移動させた。その理由は正確には知られていない。ポントス軍に対する共同作戦の合意ができたのか、あるいは単に戦う時期を遅らせたかである。加えて、フラックスは自軍の兵がスッラ側に寝返るのを避けるという理由もあっただろう。 フラックスはマケドニアを通過してビュザンティオンに至り、さらにボスポラス海峡を渡って小アジアに侵攻し、カルケドンを占領した。しかしビュザンティオンに到着した時点で、フラックスはレガトゥス(副司令官)のガイウス・フラウィウス・フィンブリアとの間に問題を抱えていた。フィンブリアは暴力的な気質、横柄さと残酷さで知られていた。フィンブリアは軍付きのクァエストル(財務官)と口論となり、フラックスが自分に不利な裁定を下したために恨みを抱いていた。フラックスが渡海した後、ビュザンティオンに残っていたフィンブリアはフラックスが戦利品の一部を隠し持っているといいたてて、兵士を反発させた。これを知ったフラックスはビュザンティオンに引き返したが、反乱を抑えることはできなかった。フラックスは脱出せざるを得なくなり、まずはカルケドンへ、続いてニコメディアへ向かった。反乱兵はフラックスを追跡し、フラックスはニコメディアの井戸に隠れていたが、引きずり出されて殺害された。切断されたフラックスの首は海に投げ込まれ、遺体は埋葬されることなく放置された。
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