東京記者団
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1909年(明治42年)当時秋田魁新報社の主筆だった安藤和風は、東京の各新聞記者達を招待して秋田県の景観が優れていることを全国に広く、紙上に宣伝してもらった。彼は魁新報社の社長だった井上広居に進言して、森正隆知事と折衝を重ねてもらいこれが実現した。記者団は総勢21名で、明治42年7月23日に上野を発ち、翌日秋田入りした。大湯温泉での大歓迎の後、次の日、馬に乗り発荷峠への道を登った。安藤和風は発荷峠への道で「風薫る山又山や湖高く」と詠っている。発荷峠から十和田湖を見下ろした時の感激は「発荷峠大観」と詞書して「山登り盡せば樹の間に大いなる鏡の如く開く湖」と詠っている。安藤和風はこの旅を終えて、十和田湖の開発には交通路の整備が急務であると考え、県に強く働きかけた。大正元年には大湯から発荷峠まで、車が通れる道路工事が始まり、1914年(大正3年)に完成した。さらに和風は知事に働きかけ、1927年(昭和2年)に道路を湖畔まで延長してもらった。湖上には初めて県の発動機船「南祖丸」が就航し人気を博した。昭和4年には十和田湖への観光客が前年の3倍になったという。 沼波瓊音は、1909年(明治42年)の東京記者団の一員として発荷峠を訪れている。7月29日晴天、大湯から三十余人が馬に乗り十和田湖に向かった。「うつらうつらと再び馬睡を催す時、前なる人の『あ』と叫ぶに驚きて瞳を放てば、大湖當面にあり、蕩として碧落に横う。我は始めて其名に焦れし十和田湖を見つるなり、湖畔には山連なり、遙かに一峰に秀づるを八甲田山とす、水に一舟泛ばず又波の光無し、唯晴煙高く漂ひて水も山も見る見る一気に解け去らんとするものの如し」と記している。発荷峠を下る様子は「左に崖高く樹枝参りてその陰冷かに、路は辛うじて一馬を進に足る。しかも泥深くして磊石所々に浮く、右は削るが如く谷をなせり唯青葉の暗く戦ぐを見るのみ其の深さ幾仭なるを知らず」と記している。
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