東京記者団とは? わかりやすく解説

東京記者団

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/22 07:05 UTC 版)

発荷峠」の記事における「東京記者団」の解説

1909年(明治42年)当時秋田魁新報社主筆だった安藤和風は、東京の各新聞記者達を招待して秋田県景観優れていることを全国広く紙上宣伝してもらった。彼は魁新報社の社長だった井上広居進言して、森正隆知事折衝重ねてもらいこれが実現した記者団総勢21名で、明治42年7月23日上野発ち翌日秋田入りした。大湯温泉での大歓迎の後、次の日、馬に乗り発荷峠への道を登った。安藤和風発荷峠への道で「風薫る山又山や湖高く」と詠っている。発荷峠から十和田湖見下ろした時の感激は「発荷峠大観」と詞書して「山登り盡せばの間に大いなる鏡の如く開く湖」と詠っている。安藤和風はこの旅を終えて十和田湖開発には交通路整備急務であると考え、県に強く働きかけた。大正元年には大湯から発荷峠まで、車が通れ道路工事始まり1914年(大正3年)に完成した。さらに和風知事働きかけ1927年(昭和2年)に道路湖畔まで延長してもらった湖上には初めて県の発動機船「南祖丸」が就航し人気博した昭和4年には十和田湖への観光客前年の3倍になったという。 沼波瓊音は、1909年(明治42年)の東京記者団の一員として発荷峠訪れている。7月29日晴天大湯から三十余人が馬に乗り十和田湖向かった。「うつらうつらと再び馬睡を催す時、前なる人の『あ』と叫ぶに驚きて瞳を放てば、大湖當面にあり、蕩として碧落に横う。我は始めて其名に焦れ十和田湖を見つるなり、湖畔には山連なり遙かに一峰に秀づるを八甲田山とす、に一舟泛ばず又波の光無し、唯晴煙高く漂ひても山も見る見る一気解け去らんとするものの如し」と記している。発荷峠を下る様子は「左に崖高く樹枝参りてその陰冷かに、路は辛うじて一馬を進に足る。しかも泥深くして磊石所々に浮く、右は削るが如く谷をなせり唯青葉暗く戦ぐを見るのみ其の深さ幾仭なるを知らず」と記している。

※この「東京記者団」の解説は、「発荷峠」の解説の一部です。
「東京記者団」を含む「発荷峠」の記事については、「発荷峠」の概要を参照ください。

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