村政時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/03 17:30 UTC 版)
詳細は「鳴尾村 (兵庫県)」を参照 その後、明治22年(1889年)、町村制施行に伴い、鳴尾村に小松・小曽根・上田新田の各村を合併した。 『武庫郡誌』によれば、当時のこの地域の気風は小松・小曽根・上田以外(すなわち旧・鳴尾村)の者は天領の住民であったため威張り気味で、一般に朴直だが容易く粗暴に流れ野蛮な行為をはたらいたという。かつては年中行事として7月24日には盆踊りを行っていた。床と称する地車様の楼台2つを2箇所の広場に出して、音頭をとる者、三味太鼓の囃子方を務める者が楼上に集まり、多数の男女が周囲を廻って踊り、「鳴尾踊」と称した、近村から見物人多く有名だったが、暴飲暴食しその結果喧嘩口論等が常にあり、往々に殺人沙汰にさえなり、明治30年前後に廃絶された。 明治38年(1905年)阪神電車が開通。翌年は鳴尾百花園、明治40年(1907年)に鳴尾競馬場、大正時代に運動場・ゴルフ場ができた。 村政時代の大事件として大正12年(1923年)には、鈴木商店が危険物であるピクリン酸の搬入を強行したピクリン酸事件が村政を揺るがした。 大正から昭和にかけて臨海工業地として発展し、武庫川の改修に伴い枝川・申川は廃川し、旧河道付近は甲子園として開発され、甲子園球場、甲子園阪神パークなどが作られた。 昭和25年時点で鳴尾村は世帯数7,723・人口33,812、単独で市になれるほどの規模があった。また、戦前から大庄村・武庫村・瓦木村と武庫川市になる構想もあった。しかし戦後に財政事情が悪化し、西宮・尼崎両市からの合併宣伝合戦の末、住民投票で西宮市への合併が決定した。この時、村から市へ「合併覚書」が取り交わされ、西宮市はいくつもの公約を結ぶこととなり、それらは現在にまで続けられている。
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