期成会の機関紙から社会主義の機関紙へ
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「労働世界」の記事における「期成会の機関紙から社会主義の機関紙へ」の解説
創刊初期の「労働世界」の目的は、労働組合期成会のスローガンである「労働は神聖なり」「組合は勢力なり」を実行することであり、技術の向上と産業の進歩に資せんとする労使協調的な性格を持っていた。また、労働組合の結成だけでなく「共働店」=消費組合の結成が説かれた。しかし、1898年4月に発行された第5号には早くも社会主義に好意を示す記述が現れ、1899年27号からは「社会主義欄」が設けられ欧州の社会主義運動についての解説が乗せられるなど、労使協調路線から脱していった。労働組合主義を主張する高野房太郎と社会主義を主張する片山の対立が、期成会と「労働世界」の対立となって現れた。 片山は、紙上で「講壇社会主義」を批判する論陣を張った。また、治安警察法下での労働運動への弾圧に関する告発や、萌芽的なものであるものの労働者階級の政治運動の必要性を打ち出した。前述の「社会主義欄」は、治安警察法下での労働者の政治運動の開始を見越して設けられたものであり、同時に「普通選挙欄」を設け、普通選挙同盟会などによる普選運動の動向を紹介した。 1902年1月、「内外新報」と改題し日刊紙として再刊した。同年4月3日にふたたび「労働世界」に複題し、月3回刊の雑誌として1903年2月23号まで刊行された。3月3日号より「社会主義」と改題し、社会主義協会の機関紙となった。 「社会主義」は初めから社会主義的主張を掲げており、改題第一号では片山が労働者政党の必要性を訴えている。また、木下尚江、西川光二郎らによっても労働者の政治運動による社会運動の必要性が説かれ、これらは日露戦争前夜の非戦論への先鞭をつけた。また、社会主義の宣伝・普及運動についての詳しい報告や、各地の労働者の窮状を明らかにする記事が掲載された。 1903年12月に片山が第二インターナショナル第六回大会に出席するために渡米し、山根吾一が編集を受け継いだ。1904年には「平民新聞」が創刊され、運動の中心はそちらに移るも、社会主義的主張を守り続けた。ただし、詩歌の欄や渡米案内欄などを設け、誌面の内容に幅を持たせている。
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