朔旦冬至を巡る「改暦」
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中国で採用され、日本に導入された太陽太陰暦の初期の法則に「章」という概念があった(「章法」)。これは、19年が必ず235か月(19年×12か月+7か月)の周期が繰り返されるというもので、その結果19年のうちに7回の閏月が生じることとなる。前の章から新しい章への移行の年のことを「章首」と呼んだが、章首の年には前の章の最後に生じる7番目(最後)の閏月を終えた後に到来するその年の冬至をもって新しい章への切替が行われ、その日は必ず11月1日となるものとされていた。これを朔旦冬至(さくたんとうじ)と称して、暦の諸原則が上手く機能して政治が順調に推移している証拠とされて大規模な儀式をもって祝われた。 ところが、章の原則(章法)と実際の太陽日が合致するわけではなかったため、中国では時々暦法の改暦が行われた。当初は章の原則を維持する暦法が用いられていたが、後には章そのものは存続させるものの、太陽年との合致を優先するようになった。こうした章の原則に拘らない暦法を破章法と呼ぶ。日本でも初めての暦法の改暦となった儀鳳暦(唐の麟徳暦)以後は破章法が導入された。そのため、冬至の予定日がずれて章の最初となるべき冬至が朔旦冬至にならない例も出現した。当初、朔旦冬至は注目されていなかったために問題は生じなかったが、延暦3年(784年)に桓武天皇が朔旦冬至の儀式を導入して以後、こうした例が深刻視されるようになった。大衍暦時代の貞観2年に章の最初の冬至が11月2日(ユリウス暦860年12月18日)になることが判明した際に菅原是善らの意見により、冬至の前に大の月を1つ増やして冬至の予定日であった11月2日を11月1日に修正した。2年後に宣明暦が導入されると、こうした改暦が恒常化した。特に承平6年は章首であるにも関わらず、冬至が10月30日(ユリウス暦936年11月16日)となったために暦が乱れたとして「暦家の失」「先儒の失」「不吉の例」と非難された。それ以後、これが悪例として考えられるようになり、その教訓から月の大小や閏月を「改暦」して強引にでも朔旦冬至を実現させるようになった。 一方、本来の章の原則では章首以外に11月1日の冬至は存在し得なかったのであるが、破章法である宣明暦では章首の冬至が必ず11月1日になるとは限らないのと同じように、章首から11年目の年の冬至がずれることによって稀に11月1日に当たることがあった(臨時朔旦冬至)。これもまた不吉な例として嫌われ、11月1日が冬至に重ならないよう改暦する操作が行われた。後には朝廷儀礼の衰退とともに朔旦冬至への関心が次第に低下したこともあり、応仁2年(1468年)を最後に、章の最初を朔旦冬至とする方針が放棄されて章首とは無関係に朔旦冬至が祝われるようになったが、戦国時代の弘治元年(1555年)には財政難を理由に朔旦冬至を回避したのを最後にこうした改暦は行われなくなった。 なお、朔旦冬至の実現のための改暦が17回、回避のための改暦が6回行われている。
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