朔旦冬至を巡る「改暦」とは? わかりやすく解説

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朔旦冬至を巡る「改暦」

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/22 09:46 UTC 版)

改暦」の記事における「朔旦冬至を巡る「改暦」」の解説

中国採用され日本導入され太陽太陰暦初期法則に「章」という概念があった(「章法」)。これは、19年が必ず235か月19年×12か月+7か月)の周期繰り返されるというもので、その結果19年のうちに7回の閏月生じることとなる。前の章から新しい章への移行の年のことを「章首」と呼んだが、章首の年には前の章の最後に生じ7番目(最後)の閏月終えた後に到来するその年の冬をもって新しい章への切替が行われ、その日は必ず11月1日となるものとされていた。これを朔旦冬至さくたんとうじ)と称して、暦の諸原則上手く機能して政治順調に推移している証拠とされて大規模な儀式をもって祝われた。 ところが、章の原則章法)と実際太陽日合致するわけではなかったため、中国では時々暦法改暦が行われた。当初は章の原則維持する暦法用いられていたが、後には章そのもの存続させるものの、太陽年との合致優先するようになったこうした章の原則に拘らない暦法破章法と呼ぶ。日本でも初めての暦法改暦となった儀鳳暦(唐の麟徳暦以後破章法導入された。そのため、冬至予定日がずれて章の最初となるべき冬至朔旦冬至ならない例も出現した当初朔旦冬至注目されていなかったために問題生じなかったが、延暦3年784年)に桓武天皇朔旦冬至儀式導入して以後こうした例が深刻視されるようになった大衍暦時代貞観2年に章の最初の冬至が11月2日ユリウス暦860年12月18日)になることが判明した際に菅原是善らの意見により、冬至前に大の月1つ増やして冬至予定日であった11月2日11月1日修正した2年後宣明暦導入されると、こうした改暦恒常化した。特に承平6年は章首であるにも関わらず冬至10月30日ユリウス暦936年11月16日となったために暦が乱れたとして「暦家の失」「先儒の失」「不吉の例」と非難された。それ以後、これが悪例として考えられるようになり、その教訓から月の大小閏月を「改暦」して強引にでも朔旦冬至実現させるようになった一方、本来の章の原則では章首以外に11月1日冬至存在し得なかったのであるが、破章法である宣明暦では章首の冬至が必ず11月1日になるとは限らないのと同じように、章首から11年目の年の冬至がずれることによって稀に11月1日に当たることがあった(臨時朔旦冬至)。これもまた不吉な例として嫌われ11月1日冬至重ならないよう改暦する操作が行われた。後には朝廷儀礼衰退とともに朔旦冬至への関心次第低下したこともあり、応仁2年1468年)を最後に、章の最初朔旦冬至とする方針放棄されて章首とは無関係に朔旦冬至祝われるようになったが、戦国時代弘治元年1555年)には財政難理由朔旦冬至回避したのを最後にこうした改暦行われなくなった。 なお、朔旦冬至実現のための改暦17回、回避のための改暦が6回行われている。

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