曽我氏と安東氏
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「大光寺町 (青森県)」の記事における「曽我氏と安東氏」の解説
古代、大光寺のあたり(陸奥国平賀郡)は安東氏の勢力下にあったと考えられている。やがて源氏が津軽地方まで勢力を伸ばすと、一帯は源頼朝の直轄地となった。ここへ頼朝の代官(地頭代)として派遣されたのが、曽我氏の一族である。曽我氏は相模国の曽我郷(現在の小田原市)を本拠とする鎌倉幕府の御家人であり、津軽へ赴いたのはその支流であったが、やがて平賀郡の地頭として土着した(津軽曾我氏)。 津軽曽我氏は大光寺に本居を構え、大光寺楯(大光寺館、大光寺城、大光寺古城)を築いた。ここに拠った津軽曽我氏の本家を大光寺曽我氏と呼ぶ。分家は近傍の岩館(岩楯)に居を構え、岩館曽我氏と呼ばれている。ただしこの一門については、本家が鎌倉時代末期に滅び、分家も南北朝時代に滅亡したため史料に乏しく、特に本家の大光寺曽我氏は詳しくはわかっていない。 「大光寺」に関する直接的な言及はないものの、1222年(承久4年)の史料に津軽曽我氏の庶流、岩楯曽我氏の動静が記録されている。これは、曽我惟重という人物が、北条義時の承認を得て平賀郷岩楯(岩館)の地頭代職を父の曽我真光から継いだというものである。このときに津軽曽我氏が2つに分かれ、曽我助光が本家の大光寺曽我氏となり、曽我惟重が分家の岩館曽我氏となったと推測されている。(ただし曽我助光に関する直接的な史料はない。)彼らの祖であり最初に大光寺に土着したのは曽我時広といい、地頭代職としては真光は3代目とされている。ただしこれらの父子兄弟関係については史料に欠き不明確で、系譜については推定に基づく諸説がある。 推測されている津軽曽我氏の地頭代職の継承者 曽我時広 ─ 曽我広忠 ─ 曽我真光 ┬ 曽我助光(大光寺曽我氏) (初代・岩館地頭代) │ └ 曽我惟重(岩館曽我氏) ※広忠は初代時広の子。初代時広と真光の血縁関係は不明確で、『曽我系図』では父子とされているものの信憑性に欠く。1222年の史料により真光と惟重が父子であることは確認されるものの、助光との関係は不明確で、助光は広忠の子であろうと推定する説や、真光の嫡男が助光、次男が惟重と推定する説などがある。助光・惟重のその後の系譜もよくわかっておらず、のちの大光寺合戦で敗死した者との関係も不明確である。 代々の曽我氏の本拠地・大光寺館(古城)から1.5キロメートルほどのあたりには、五日市館があったという。五日市館を最初に築いたのは、もともと十三湊(十三湖)を本拠とした十三藤原氏(奥州藤原氏の一派)とされている。彼らは十三湖の拠点を安東氏に奪われ、ここへ移ってきて五日市館を築いた。しかしその十三湊は津波で壊滅し、居場所のなくなった安東氏が五日市館を奪ったという。その後、安東氏と曽我氏は近傍ながら共存していたと推測されている。
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