曽我氏と安東氏とは? わかりやすく解説

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曽我氏と安東氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/23 15:33 UTC 版)

大光寺町 (青森県)」の記事における「曽我氏と安東氏」の解説

古代大光寺のあたり(陸奥国平賀郡)は安東氏勢力にあった考えられている。やがて源氏津軽地方まで勢力伸ばすと、一帯源頼朝直轄地となった。ここへ頼朝代官地頭代)として派遣されたのが、曽我氏一族である。曽我氏相模国曽我郷(現在の小田原市)を本拠とする鎌倉幕府御家人であり、津軽赴いたのはその支流であったが、やがて平賀郡地頭として土着した(津軽曾我氏)。 津軽曽我氏大光寺本居構え大光寺大光寺館、大光寺城大光寺古城)を築いた。ここに拠った津軽曽我氏本家大光寺曽我氏と呼ぶ。分家近傍岩館(岩)に居を構え岩館曽我氏呼ばれている。ただしこの一門については、本家鎌倉時代末期滅び分家南北朝時代滅亡したため史料乏しく、特に本家大光寺曽我氏詳しくわかっていない。 「大光寺に関する直接的な言及はないものの、1222年承久4年)の史料津軽曽我氏庶流、岩曽我氏動静記録されている。これは、曽我惟重という人物が、北条義時承認得て平賀郷岩岩館)の地頭代職を父の曽我真光から継いだというものである。このときに津軽曽我氏2つ分かれ曽我助光本家大光寺曽我氏となり、曽我惟重が分家岩館曽我氏となった推測されている。(ただし曽我助光に関する直接的な史料はない。)彼らの祖であり最初に大光寺土着したのは曽我時広といい、地頭代職として真光3代目とされている。ただしこれらの父子兄弟関係については史料欠き不明確で、系譜について推定に基づく諸説がある。 推測されている津軽曽我氏地頭代職の継承者 曽我時広 ─ 曽我広忠曽我真光曽我助光大光寺曽我氏) (初代岩館地頭代) │ └ 曽我惟重(岩館曽我氏) ※広忠初代時広の子初代時広と真光血縁関係不明確で、『曽我系図』では父子とされているものの信憑性に欠く。1222年史料により真光と惟重が父子であることは確認されるものの、助光との関係は不明確で、助光広忠の子であろう推定する説や、真光嫡男助光次男が惟重と推定する説などがある。助光・惟重のその後系譜もよくわかっておらず、のちの大光寺合戦敗死した者との関係も不明確である。 代々曽我氏本拠地大光寺館(古城)から1.5キロメートルほどのあたりには、五日市館があったという。五日市館を最初に築いたのは、もともと十三湊十三湖)を本拠とした十三藤原氏奥州藤原氏一派)とされている。彼らは十三湖拠点安東氏奪われ、ここへ移ってきて五日市館を築いた。しかしその十三湊津波壊滅し居場所なくなった安東氏五日市館を奪ったという。その後安東氏曽我氏近傍ながら共存していたと推測されている。

※この「曽我氏と安東氏」の解説は、「大光寺町 (青森県)」の解説の一部です。
「曽我氏と安東氏」を含む「大光寺町 (青森県)」の記事については、「大光寺町 (青森県)」の概要を参照ください。

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