是安吐血の局
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檜垣是安と伊藤宗看の対局であるが、角落ちと香落ちの二番勝負だった。が、どちらを先に指すか規定もなく、仕方がなく振り駒で決めたという。これが今の振り駒の始まりであるとされる。 これによって、始まった二番勝負だったが、最初は右香落ちの対局。宗看の必勝の手合割であったが、結果は是安の勝利。家元の権威を守らんと、次局、背水の陣で挑む事になる。 角落ちで望む二番目は、鬼気迫る終盤戦の末、宗看の勝利。これによって、精気を使い果たしたか是安は吐血して死んだとされるが、実際にはこの対局の七年後に是安の棋譜が残っている。
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是安吐血の局
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初代大橋宗桂が幕府のおかかえ(現在で言う名人)となり、その地位が二代大橋宗古に引き継がれて家元制が成立したことに是安は異を唱え、自らに譲るべしと宗古に挑戦状を送った。宗古は門下生で娘婿の初代伊藤宗看を立てて、是安を迎え撃つこととした。これが争い将棋の起源であるとされることがある。 是安はこれまでに宗看と角落ち・香落ちで何度も対戦していたが、角落ちでは是安の全勝、香落ちでようやく指し分けであった。是安は、平手で宗看を倒して家元の地位を奪うべく、対振り飛車の雁木戦法(後述)という新戦法を考案していた(当時、平手では後手が振り飛車を選択するのがセオリーだったため、これを狙い撃つための戦法)。しかし、宗古の意向により、平手ではなく、右香落ちと角落ち(どちらも上手は居飛車で戦うのがセオリー)の二番勝負とされてしまい、是安は泣く泣く雁木戦法を封印して戦うこととなった。 対局は、1652年の8月に行われた。右香落ちと角落ちのどちらを先に指すかを駒を振って決め、右香落ちが先となった(振り駒の起源と伝わる)。 一局目の右香落ちは、8月5日に行われた。相居飛車で6七と5七に銀を並べる二枚銀の構え(雁木戦法とは異なるが、現在で言う雁木囲いに近いもの)を採用し、袖飛車からの攻めが決まって是安が勝利した。 勢いに乗る是安は、香落ちで勝ったのだから平手での勝負を受けよ、角落ちで負けるようなことがあれば将棋を辞める、などと宗看を挑発。ひとまずは事前に決めた通り角落ちを指すこととなったものの、もし角落ちでも是安が勝って連勝となれば、次はいよいよ平手で勝負せざるを得ない。平手ならば是安得意の雁木がついに日の目を見る。家元の地位を賭して宗看は決死の覚悟で角落ちの対局に臨んだ。 角落ち対局は8月8日に行われた。是安の三間飛車から乱戦となり、両者一進一退の攻防が続いた。161手にも及ぶ戦いの末に是安は投了。生涯を賭した激闘によって精根尽き果てた是安は、投了と同時に血を吐き、これが原因となって一年後に死んだ。打倒家元に向けて是安が創案した秘策・雁木戦法が家元相手に使われることはなく、かくして宗古・宗看の家元の地位はすんでのところで守られた。 この一戦は、是安吐血の局(吐血の戦いや吐血の一戦とも)と言う名で講談の題材となり、現代に伝わる。 しかしながら、現在では、是安吐血の局は大幅に脚色されたものではないかとされている。この対局の7年後の1659年7月22日に是安が石井承意と対局した棋譜が残っているため、この対局が原因で死んだというのは事実ではないと考えられる。
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