昭和新山の出現
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/10/01 09:24 UTC 版)
そんな1943年(昭和18年)12月28日の19時頃、増次郎が万世閣を引き継いでから毎年行っていた従業員・関係者らを招いて1年間の労をねぎらう年越しの宴会の最中、突然、建物が崩れてしまいそうな激しい大地震が襲ってきた。そして、その日から大晦日の31日まで、1日200回以上にわたって揺れ続けた。地震は、後に昭和新山が姿を現すフカバ・柳原地区より洞爺湖温泉街の方が強烈であった。住民たちは親類を頼って避難をはじめ、旅館経営者の多くも家財とともに安全な場所に避難していった。増次郎は、この時、適当な避難場所もなかったため度胸を決めて居座っていた。 昭和新山の出現、洞爺湖での大渦巻きの発生などの騒ぎが続く中、伊達警察署をはじめ、軍の憲兵隊や関係官庁の役人たちが詰め掛けた。増次郎らが残っていたのを幸いに万世閣はさながら対策本部に早変わりし、旅館は大変な忙しさとなった。正月客のために苦心して仕入れた食料品や飲み物、家族、および従業員のためのものまで、彼らにたちまち食べ尽くされてしまったという。 噴火活動は1945年(昭和20年)秋口になってようやく停止したが、同年4月には当時の温泉街の70%を焼失する大火に見舞われるなど悲運の連続だった。しかし、こうした惨憺たる状況下で、増次郎は1944年(昭和19年)9月30日に資本金10万円で株式会社萬世閣を設立して個人経営から法人化。増次郎の旅館経営にかける熱意は揺らぐことはなかった。
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