日本最古の農書
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愛媛県立松山農業学校校長の菅菊太郎によって、永禄7年(1564年)のものとされる「親民鑑月集」の記載が注目され、「わが国最古の農書」と喧伝されるようになった。しかし、上述のように『清良記』の成立時期や記載内容の真偽については議論があり、16世紀後半の土居清良当時の農業を記したものとしてそのまま信用することはできないと考えられている。農書部分の記述内容は農業史・社会経済史などの観点から着目されているが、史料批判が課題となっている。 農書部分に記載された栽培作物の種類や営農状態、面積の単位として「畝」が用いられていることなどから、永禄7年と書かれるには矛盾があると指摘され、江戸時代に入ってから書かれた物と推測されている。また、答申内容には『清良記』成立当時に伊予吉田藩が行おうとしていた鬮持制度が関わっていることも指摘されている。宗案の子供たちの描写や、宗案の名乗りから「松浦宗案」も架空の人物であると考えられる。永井義瑩は、琉球芋の記録が見られる現存の『清良記』農書部分の成立が元禄14年(1701年)以後であると考察している。
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日本最古の農書
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 00:12 UTC 版)
永禄7年(1564年)正月、土居清良は領内の農巧者である元武士の松浦宗案を城に呼び出し、宗案が提出した答申書とそれを補足する問答が『清良記』第7巻に含まれる「親民鑑月集」として収録されている。清良が農業を重視したとされるこの伝承は現在も口伝えされ、三間の人々は清良神社に対し篤い尊崇を持ち続けている。 ただし現在はその記述内容から、江戸時代の土井氏子孫による空想や過大評価が加わった上で改竄された『清良記』自体が、そもそも史料としての価値は薄いとされており、同項に登場する松浦宗案の実在すらも疑わしい、とされている。同時に、前述の中国地方を転戦した、などの経歴も疑わしいものとなっており、清良の経歴にはさらなる資料による再検証が必要である。
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