日本ダービー - 引退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/14 05:13 UTC 版)
「ハードバージ」の記事における「日本ダービー - 引退」の解説
皐月賞を優勝したハードバージの次走は、二冠を目指して日本ダービーとなった。伊藤は引き続き福永に騎乗を依頼したが、福永は自身が新馬戦から騎乗していたホリタエンジェルの陣営に先約があるとして、これを断った。伊藤は「洋一、もしこの馬に乗らなかったら、お前は一生ダービーを獲れないかもしれないんだよ」と翻意を促したが、福永の意志は変わらなかった。 結局、伊藤はハードバージの鞍上を武邦彦に任せることにした。ホリタエンジェルを管理していた中尾謙太郎によれば、「ホリタエンジェルは新馬戦の時から洋一に依頼してきたんやし、ダービーに出られることになったら洋一を乗せて出たい」と福永に言ったことがきっかけだった。また、福永によればホリタエンジェルで条件戦に騎乗した際、「この平場を勝ったらダービーへ行こう」と、福永の方から中尾に持ちかけていたという。 日本ダービー当日、ハードバージは1番人気に支持され、2番人気には3連勝した後にNHK杯でも2着となり、関西の秘密兵器として期待を集めた福永騎乗のホリタエンジェルが推された。スタートが切られるとハードバージは第1コーナー、第2コーナーで2度前が塞がり、後方からの追走となった。道中でも後方を進んだが、武が巧みに操った。最後の直線半ばで大外から追い込んで先頭に立ったが、先行したラッキールーラをクビ差捉えきれず2着に敗れた。 レース後のハードバージは、真っ直ぐに歩けないほど疲労しており、厩務員と調教助手は「こいつ、こんなになるまで走って」と涙したという。また、騎乗していた武もこの様子にもらい泣きしてしまい、騎手生活で唯一の涙を流した。 馬主の吉嶺は、武の騎乗について「武騎手は彼なりに考えて乗ってくれましたが、欲を言えば向正面あたりで、もう少し強気にいって欲しかった。だが、そんなことをしたら2着もあったかどうか分かりませんね。あの時点では、なんとしても勝って欲しかったと無念に思いましたが、いま振り返ってみると、からだの小さい馬をよく2着に持ってきてくれたと思っています」と述べている。 一方、福永騎乗のホリタエンジェルは15着と大敗。福永は「優勝したラッキールーラー〔ママ〕の伊藤君とは、馬事公苑の同期生でした。同期生の活躍は僕にとっていい刺激になります。もちろんこれからもダービーをねらいます。ハードバージに乗れなかったことは別に残念だとは思いません。あの馬には皐月賞を勝たせてもらっただけで十分です。これも自分の運ですし、僕はこれで良かったんだと思います」と述べた。しかし、福永は2年後の1979年に毎日杯で落馬して騎手生命を絶たれ、ダービーに優勝することはできなかった。中尾は「ホリタエンジェルはNHK杯のときがピークで、ダービーでは調子が落ちていた。こんなことならば、洋一にはハードバージにそのまま乗ってもらったほうがよかった。悪いことをした」と述懐している。 ハードバージは、日本ダービー後に屈腱炎を発症。再起を図って治療に専念したものの快復に至らず、1980年に引退。結局、日本ダービーが最後のレースとなった。
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