日本ダービー以降、阪神大賞典まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/14 05:16 UTC 版)
「キーストン」の記事における「日本ダービー以降、阪神大賞典まで」の解説
ダービーの後は休養に入り、9月に函館で復帰。緒戦から3連勝を挙げ、菊花賞を迎えた。ダイコーターもダービー後の休養・復帰から3連勝で臨み、当日はダイコーター1番人気、キーストン2番人気となった。レースは先行するキーストンの直後で栗田ダイコーターが徹底的なマークを続け、キーストンはゴール前で3/4馬身かわされて2着となった。 12月にはオープン戦に勝利したが、調子が落ちていると判断され、年末のグランプリ・有馬記念を回避してシーズンを終えた。ダービー優勝と年間10戦7勝の安定した成績が評価され、翌1月には当年の最優秀4歳牡馬と最良スプリンターのタイトルを受賞した。なお、フリーハンデではダイコーターの方が上位に据えられており、翌シーズンに向けての期待はダイコーターの方が高かったとされている が、ダイコーターは翌年以降不振に陥り、最終的に障害馬としてキャリアを終えた。その後種牡馬として成功を収めている。 キーストンは年明けの金杯(西)から復帰し、3馬身差で勝利。しかし続く大阪杯で7着と敗れると、オープン戦勝利から春の目標とした天皇賞・春は、1歳上のハクズイコウらに完敗し、5着となった。さらに秋に備えて休養に入った先で脚を傷めて長期の休養を余儀なくされ、療養は1年以上に及んだ。 6歳となった1967年7月に函館競馬場で復帰する。復帰戦こそ2着となったが、以後夏から秋にかけて得意の短中距離で4連勝を遂げる。復活と見た陣営は、年末の有馬記念への登録を行ったが、遠征が脚への負担となると考え予定を変更し、地元関西の阪神大賞典に出走した。
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