日本の押印文化の形成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/11 21:02 UTC 版)
詳細は「印章#日本」を参照 日本における印章の歴史としては、古くは漢委奴国王の金印が有名ではあるが、現在のように押印を行った個人や法人の意思表明の手段として利用されたのではなく、地位の象徴として保有されたものであるとする説が有力である。その後、公印としての利用は見られたものの、現在のような目的で使用される私印が利用され始め、ハンコ文化が開花したのは、戦国時代であると言われている。 江戸時代に入ると商人や町人なども使い始め、印章彫刻 (印判師) という職が生まれるほどであった。徳川8代将軍である徳川吉宗のもと策定された公事方御定書では、謀判に対して極刑を課すと定められており、印章がその捺印者を認定する証拠として普及していたことが見て取れる。 さらに、明治時代に入り万人に苗字が認められると一気に広がりを見せ、1873年 (明治6年) 太政官布告第239号により実印が裁判上の証拠として重視されることが明文化された。この太政官布告第239号が、現在まで続くハンコ文化 (押印文化) の根幹であると見る向きは多い。 その後、明治政府は「諸証書ノ姓名ハ必ズ本人自ラ書シテ実印ヲ押スベシ」と布告し、署名制度の導入が試みられるも、識字率の低さや金融関係証書発行の煩雑さなどを理由に反対され、1900年 (明治33年) に商法中署名スヘキ場合ニ関スル法律が成立。商法が適用される場面においては、署名に代えて記名押印が法的に認められることとなり、この法律は会社法が成立する2005年 (平成17年) までの100年以上にわたり続いた。
※この「日本の押印文化の形成」の解説は、「脱ハンコ」の解説の一部です。
「日本の押印文化の形成」を含む「脱ハンコ」の記事については、「脱ハンコ」の概要を参照ください。
- 日本の押印文化の形成のページへのリンク