日本の伯耆国へ訴願
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 13:52 UTC 版)
安龍福が朝鮮へ送還された3年後の1696年(元禄9年)1月、朝鮮との長期間に及ぶ交渉の結果、幕府は鳥取藩へ竹島(鬱陵島)への渡航禁止を伝達した。そのことを知らない安龍福は、この年の5月に僧侶を含む10人を引き連れ鬱陵島と于山島の領有の訴願に伯耆を目指し、途中隠岐に着岸する。隠岐では船内や持ち物など詳細に取り調べを受けるが、このとき安龍福は松島を于山島とし江原道東莱府に属すと説明している。しかし実際は鬱稜島と于山島は江原道蔚珍県の管轄で、東莱府は慶尚道にあり、全くでたらめの説明をしている。3年前に大谷家に連行され素性が知れているにもかかわらず、隠岐での取調べ後、税を取り立てる役人を装い、船首に「朝鬱両島監税将臣安同知騎」と書いた旗を掲げて、訴願のため自ら伯耆へ向かう。僧の雷憲以外も全員が役人や僧侶を装っている。隠岐で取調べを受けたときは安龍福と名乗り日本語を話しているが、鳥取城下に入ってからは名前に「同知」という官名を詐称し日本語を話せないふりをしている。鳥取藩で訴状を提出するが、話が通じないため幕府が対馬藩より通訳を派遣する。しかし、通訳が到着する前に江戸幕府より異国人の窓口は長崎であると返答され、全員乗ってきた船で帰国させられる。 隠岐の村上家文書に隠岐で取調べを受けた時の安龍福に関する内容が残っているが、年齢についての信憑性はない。 「因幡志」 筆記之部 九(pdf 3p) (安龍福の船に取り付けた旗の図と同乗者)
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