日本で2番目の女性映画監督となった田中絹代とは? わかりやすく解説

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日本で2番目の女性映画監督となった田中絹代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/31 16:58 UTC 版)

乳房よ永遠なれ (映画)」の記事における「日本で2番目の女性映画監督となった田中絹代」の解説

日本で初の女性映画監督となったのは溝口健二監督作品編集等を務めていた坂根田鶴子であった坂根1936年昭和11年)に初の監督作品発表している。しかし戦後坂根映画監督に復帰することはなかった。 坂根に続く日本2人目の女性監督となったのは、実力ある女優として知られていた田中絹代であった戦前期田中絹代島津保次郎清水宏五所平之助といった映画監督のもとで女優として人気スターへの道を歩みだした。中でも島津保次郎監督の「春琴抄 お琴と佐助」、五所平之助監督の「恋の花咲く 伊豆の踊子」ではその演技力高く評価された。そして戦時中木下惠介監督映画陸軍」で、主演女優として出征していく息子送り出さねばならない母親思い演じ切り、女優としての高い実力発揮したトップ女優として活躍していた田中絹代は、やがて映画監督という仕事興味覚えようになった田中絹代がまず女性映画監督興味感じたのは、1940年昭和15年)に見たレニ・リーフェンシュタール民族の祭典であったという。戦後になり、田中絹代溝口健二監督小津安二郎監督らの作品において女優として安定した実力発揮していたが、次第年齢高くなっていく中で、トップ女優として地位保ち続けていくことに困難を感じ始めてきた。そのような中で毎日映画コンクールにおいて「女優須磨子の恋」、「風の中の牡」と、2年連続女優演技賞を受賞した田中絹代は、コンクール主催毎日新聞社主催アメリカ親善旅行に行くことになったアメリカで見聞通じて田中絹代は、くすぶり続けてきた映画監督へ思い確たる願いへと変わっていったと考えられている。 1953年昭和28年)、木下惠介が主に作成し小津安二郎成瀬巳喜男協力仰いで作成され脚本を、田中絹代監督として撮影された「恋文」が完成した。こうして田中絹代坂根田鶴子続き日本2人目の映画女性監督となった

※この「日本で2番目の女性映画監督となった田中絹代」の解説は、「乳房よ永遠なれ (映画)」の解説の一部です。
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