日本での撮影監督
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/20 02:08 UTC 版)
先にふれたように、日本の場合はキャメラ・アングルはキャメラマン、ライティングは照明技師、露出計測は撮影助手というように少なくとも3名で分担していることが多かった。これは、昔のスタジオが「照明に対して文句は言わない、言わせない」と決めたために仕事が速く進むのである。一昔前作品の量産を強いられてきた大手の撮影所は、映像をフィルムに定着する、という一人の人格から、ライティングを切り離して、照明部を丁重にもてなすことによって、仕事を早く進めようとしたからである。現在の日本では、欧米流の撮影監督の形を取る者もいれば、従来のキャメラマンのスタイルを取る者もいるという状態になっている。あるいは、現場での作業は従来型で進めつつも、エンドロールの表示では「撮影監督」となったり、あるいはその逆、ということもある。 日本では1930年代から、キャメラマンは長らく「撮影技師」と呼ばれていた。1988年にアメリカで活躍する一流の撮影監督の技術論を質疑応答の形式でまとめた「マスターズ・オブ・ライト」が出版され、1992年にNHKとAFIが製作しASCが監修した『ビジョンズ・オブ・ライト』がNHKでテレビ放送(のち劇場公開)されるとこれらの影響で、日本の出版物などにも「撮影監督」という言葉が使われるようになり、著名なキャメラマンを「撮影監督」と紹介するケースがポピュラーになった。「撮影監督」という言葉は英語の「Director of photography」の直訳で、アメリカ帰りの三村明が1960年に「日本映画撮影者倶楽部」の理事長に就任した際に「日本映画撮影監督協会」に名称を変更している。本質的には日本にも「撮影監督」に値する人は何人もいた。三村明も数名のキャメラマンの画調を総合的に統一するという意味では「撮影監督」をかつて名乗ったが完全なものではなかった。日本の場合「撮影監督」という名称は、過去の名作を数多く担当した名キャメラマンに送る称号として、ある種の〔冠〕のように扱われる傾向が強い。 なお「特撮監督」は一般的にカメラ責任者ではなく照明、美術、演技も含めて特殊撮影部分を全部統括する別チームの監督であり、その下にカメラ責任者としての撮影監督がさらにつく。まぎらわしいために東宝やその流れを引く会社では「特技監督」と呼ぶ場合もある。 後期の黒澤明監督作品は2台のカメラを同時に回すマルチカム方式が状態だったため、撮影監督もずっと2名体制になっている。マルチカムのもっとも大規模な例は1997年の大河原孝雄監督作品『誘拐』で、身代金運搬場面に十数台のカメラが同時に回されたため、メインの木村大作以外に十数人の撮影監督クラスが「協力撮影」の名目で参加している。
※この「日本での撮影監督」の解説は、「撮影監督」の解説の一部です。
「日本での撮影監督」を含む「撮影監督」の記事については、「撮影監督」の概要を参照ください。
- 日本での撮影監督のページへのリンク