日本から大陸への動脈
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 03:46 UTC 版)
1902年、日本が漢城(現・ソウル)と開城を結ぶ路線の建設を開始。1904年には日露戦争の物資輸送のために、漢城から清国国境の新義州までを結んだ。この全長499.3kmの路線を、京城の「京」と新義州の「義」を取って「京義線」と呼称した。 1908年4月には釜山 - 新義州間に急行列車「隆熙号」が運行を開始。1911年11月には安東駅 - 新義州駅間の鴨緑江鉄橋(中朝友好橋)が完成し、南満州鉄道(満鉄)の安奉線と接続したことによって、1913年からは京義線・満鉄・シベリア鉄道経由で京城からロンドン行の乗車券も発売された。更には、日本の東京などからも京釜線・関釜連絡船を介して連絡乗車券が販売されたという。詳しくは国際連絡運輸を参照。 当初の京義線は、京城の南の龍山駅を起点とし、現在の龍山線を通って北西へと延びていた。しかし1910年代後半には、龍山駅が手狭になったことと市内から離れていることから、日満間の列車が停まる朝鮮の玄関口となるにふさわしい新たな中央駅を京仁線の中間駅である南大門駅(後の京城駅、現在のソウル駅)の場所に設けることとなった。京義線は南大門駅で京釜線と接続することになり新線建設が進められ、1921年にそれまでの龍山線経由に代わる新村駅経由の現在の本線が開通した。南大門駅は1923年に京城駅と改称され1925年に新駅舎が完成している。 新義州から満州地方にも鉄道線が延びており、1930年代・1940年代には京釜線・京義線・満鉄線を経由して複数の大陸連絡急行列車が運行され、釜山から満州国の首都・新京までの「ひかり」・「のぞみ」および釜山から北京までの「大陸」・「興亜」などが設定されていた。
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