日本から消えた杉原紙
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 03:15 UTC 版)
杉原紙からかなり遅れて、江戸時代の中期から後期には美濃紙の製法が全国へ広がった。米粉の添加によって虫害に弱い杉原紙に対し、美濃紙(米粉を添加しないことを「生漉き」と称する)は記録・保存用に向いていた。また、近世に盛んになった印刷にも、薄口の美濃紙が適していた。 近代に入ると、安価で大量生産可能な西洋紙が流入し、競争力の低い和紙の産地は淘汰されていった。杉原紙にとっては、武士階級の消滅によって、一束一本の贈答礼が廃れ、主要な消費層がいなくなった。明治20年代には美濃紙が圧倒的になり、杉原紙は市場から姿を消した。兵庫県(旧・播磨国)の杉原谷では、生産する紙の種類を変えて紙漉きが続けられたが、やがてそれらの集落が無人化したりして、大正時代末期には完全に姿を消した。
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