日光参拝と田中隊の活動とは? わかりやすく解説

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日光参拝と田中隊の活動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/08 23:34 UTC 版)

天狗党の乱」の記事における「日光参拝と田中隊の活動」の解説

藤田小四郎筑波勢は、元治元年4月3日1864年5月8日)に下野国日光栃木県日光市)へと進んだ。彼らは徳川家康祀った聖地ある日東照宮占拠して攘夷軍事行動踏みきる予定であったが、日光奉行小倉正義通報受けた近隣各藩の兵が出動したため、小四郎らは日光から太平山栃木県栃木市)へと移動し同地5月末までに滞在した一方水戸城においては保守派市川弘美三左衛門)が鎮派の一部結んで諸生党結成し、藩内での激派排除開始した。これを知った藤田らは筑波山へと引き返すが、この間一味は約700人に達しており、軍資金の不足が課題となったため、筑波勢は攘夷口実してまた府中筑波柿岡など近隣の町役人富農商人らを恫喝し金品徴発し、少しでも抵抗すれば放火し殺害したとりわけ田中愿蔵により組織され別働隊は、このとき資金供出断った栃木宿栃木県栃木市6月5日-6日)・真鍋宿茨城県土浦市6月21日)をはじめ、足利桐生大間々結城などの町で放火略奪殺戮働き天狗党暴徒集団として明確に認識される原因成した中でも惨劇展開されたのが栃木宿であった6月5日栃木宿到着した田中らは、たまたま通りかかった町人らを殺害し家々押し入って町民恫喝し金品強奪した駆け付けた栃木陣屋役人が町人殺害の下手人差し出すよう命じると、田中賠償金として150両を支払ったが、なおも宿場内に居座り続けたこのため陣屋側は急いで武器調えるとともに近く猟師達を召集し、町に対して天狗党強請応じないよう命じた同日夜、田中は町に対し軍資金30,000両を要求し、町側が5,000両しか出せないと答えると田中宿場に火を放たせ、さらに火を消そう集まって来た町民らを殺害した。この火災により翌日までに宿場内に限って237戸が焼失した

※この「日光参拝と田中隊の活動」の解説は、「天狗党の乱」の解説の一部です。
「日光参拝と田中隊の活動」を含む「天狗党の乱」の記事については、「天狗党の乱」の概要を参照ください。

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