日光参拝と田中隊の活動
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「天狗党の乱」の記事における「日光参拝と田中隊の活動」の解説
藤田小四郎ら筑波勢は、元治元年4月3日(1864年5月8日)に下野国日光(栃木県日光市)へと進んだ。彼らは徳川家康を祀った聖地である日光東照宮を占拠して攘夷の軍事行動に踏みきる予定であったが、日光奉行・小倉正義の通報を受けた近隣各藩の兵が出動したため、小四郎らは日光から太平山(栃木県栃木市)へと移動し、同地に5月末までに滞在した。 一方水戸城下においては、保守派の市川弘美(三左衛門)が鎮派の一部と結んで諸生党を結成し、藩内での激派排除を開始した。これを知った藤田らは筑波山へと引き返すが、この間に一味は約700人に達しており、軍資金の不足が課題となったため、筑波勢は攘夷を口実にしてまたも府中・筑波・柿岡など近隣の町村の役人や富農・商人らを恫喝して金品を徴発し、少しでも抵抗すれば放火して殺害した。とりわけ田中愿蔵により組織された別働隊は、このとき資金供出を断った栃木宿(栃木県栃木市、6月5日-6日)・真鍋宿(茨城県土浦市、6月21日)をはじめ、足利・桐生・大間々・結城などの町で放火・略奪・殺戮を働き、天狗党が暴徒集団として明確に認識される原因を成した。 中でも惨劇が展開されたのが栃木宿であった。6月5日、栃木宿に到着した田中らは、たまたま通りかかった町人らを殺害し、家々に押し入って町民を恫喝し金品を強奪した。駆け付けた栃木陣屋の役人が町人殺害の下手人を差し出すよう命じると、田中は賠償金として150両を支払ったが、なおも宿場内に居座り続けた。このため、陣屋側は急いで武器を調えるとともに近くの猟師達を召集し、町に対しては天狗党の強請に応じないよう命じた。同日夜、田中は町に対し軍資金30,000両を要求し、町側が5,000両しか出せないと答えると田中は宿場に火を放たせ、さらに火を消そうと集まって来た町民らを殺害した。この火災により翌日までに宿場内に限っても237戸が焼失した。
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