新田荘の立荘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 03:54 UTC 版)
河内源氏・源義国の嫡子として誕生。異母弟に足利氏の始祖源義康がいる。父・義国は下野国足利荘を開墾したがこれは次男の義康が継承し、長男の義重は源頼信-頼義-義家-義国と伝領した河内源氏重代の拠点である摂関家領上野八幡荘を継承し、また義国と共に新たに上野新田郡の開拓事業に乗り出す。その過程で源氏一族の源義賢、武蔵国の秩父氏、下野の藤姓足利氏といった諸勢力とは緊張関係に陥るが、一方南関東の支配者で弟義康と相婿でもある源義朝・義平父子とは提携し、娘(祥寿姫)を義平の室としている。また甥の足利義清を猶子とし娘を嫁がせている。 仁平3年(1153年)、『山槐記』に内舎人に任官したと記されているのが、史料上の初見である。保元2年(1157年)、平家系の藤原忠雅を領家として新田荘の立券に成功、新田荘司と称した。当時の上野国司藤原重家の舅が鳥羽院御願寺金剛心院の造営に深く関与をした藤原家成であり、藤原氏北家花山院流忠雅の母の兄も家成であった。 ここに至り、かねてより敵対していた藤姓足利氏・秩父氏らと本格的に武力衝突し、渡良瀬川の強行渡河作戦によってこれを撃破し(秩父足利合戦)、さらに北関東における地盤を確固たるものにした。同時に、父・義国が加冠を行った源義清の子である甲斐国の武田信義と親交があり、信義の嗣子信光に自分の娘を嫁がせ、信義の弟・加賀美遠光の加冠を義重が行なっている。また、源盛義とも親交が深く、平賀氏一族の義隆、義澄、義資(義職)を猶子としている。更に、治承・寿永の乱に際して猶子であり娘婿でもある足利義清(矢田義清)が木曾義仲に与した。この事が頼朝の反感を買った要因の一つとされている。 平家全盛時代にはこれに臣従し、従五位下・大炊助に任ぜられた。
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