新寄宿舎(吉田寮)の開舎
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「京都大学吉田寮」の記事における「新寄宿舎(吉田寮)の開舎」の解説
1913年秋、新寄宿舎が竣工した。この寄宿舎は約500坪の敷地に木造2階建ての3棟(南寮・中寮・北寮)が並列し、平屋の管理棟(本館)につながる構造だった。各寮には「特別自習室」を兼ねた「病室」1部屋と、甲乙二種類の「舎生室」が約40部屋あった。甲室は8畳または10畳の二人相部屋、乙室は6畳の一人部屋だった。(甲室の数は少なかった)部屋は全てが南向きで、風通しも良かった。管理棟には学生監室、事務室、会議室、医局、閲覧室、談話室、湯呑所、見張所、電話室があった。談話室には碁盤、集会所にはピアノ、オルガン、ピンポン等の娯楽用品が置かれていた。また、舎内には2つも売店があり、片方は飲食物(牛乳、「コヒー」、茶菓子、麺類、しるこ)を、もう片方は文房具を販売していた。付属建築物には食堂、賄所、洗面所、浴場、小使控所等があった。防火設備も完備されていた。専属の守衛と事務員もいた。 開舎式から何か月も経たないうちに、新寄宿舎は旧寄宿舎のそれに似た自治組織を擁するに至った。意思決定機関として「総会」と総代会が設置された。総会には定足数があり、多数決制であった。総代会は各寮の各部(1部 - 4部)を代表する12名の総代からなった。また、各寮は2名ずつ「総務委員」を選出して「総務部」を組織、日常の事務の執行に当たらせた。専門部の園芸部、衛生部も作られた。1917年時点で、総務部、会計部、衛生部、談話部、遠足部、庭球部、雑誌部、園芸部、購買部が専門部として存在していた。
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