斉・稷下の学士とは? わかりやすく解説

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斉・稷下の学士

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 02:21 UTC 版)

戦国時代 (中国)」の記事における「斉・稷下の学士」の解説

紀元前4世紀、斉の盛時もたらした威王宣王は、各地から多く学者集めた。これらの学者には、臨淄13城門のうち西門一つである稷門近く稷下)の邸宅与えられ多額資金支給して学問・思想研究著述にあたらせた。こうした学者たちは「稷下の学士」「稷下先生」などともよばれ、陰陽家鄒衍、贅壻であった淳于髠道家である田駢道家にも法家にも属す慎到、これも道家の接予、もう一人著名な道家で環淵、性悪説唱えた儒家荀子白馬非馬説有名な兒説墨家系統だが道家でもある宋銒、これも墨家系統であるが道家でもある尹文兵法家世に名高い孫臏などが著名である。 このような積極的な人材登用刺激されたのか、性善説有名な孟子も斉に仕官しに来た。しかし孟子は、俸給もらわずただ論争するのみの学士同等にされたくなく、稷下の学士と同じ対応を拒み宣王の師としての対応を要求した。 鬼谷は斉人であったが、稷下の学士であったかどうか不明である。鬼谷は蘇秦張儀の師である。 稷下の学士たちは日々論争し人々はこれを百家争鳴呼んださまざまな思想学問接触し学者たちの間で討論が行わることで、論理磨かれ相互理解深めることにつながった。こうして形成されさまざまな学問は、稷下の学とも呼ばれるこのように討論をするので、稷下の学士弁論術磨きをかけ、論理新たにていったそのような人物は、戦国時代では弁者察者呼ばれていた。 稷下の学士は、直接斉の政治関与する人々ではなかったが、卿につぐ次官級俸禄与えられ優遇された。人数は、数百人から千人ともいわれている。おそらく彼らは斉の政府政治を行う上での案を採る対象として招かれた、もしくは集まった人々であると思われる。しかし、中には例外もいる。稷下の学初代村長となった淳于髠は、何度も他国使節として派遣されている。

※この「斉・稷下の学士」の解説は、「戦国時代 (中国)」の解説の一部です。
「斉・稷下の学士」を含む「戦国時代 (中国)」の記事については、「戦国時代 (中国)」の概要を参照ください。

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