文臣と武臣の対立とは? わかりやすく解説

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文臣と武臣の対立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 20:26 UTC 版)

両班」の記事における「文臣と武臣の対立」の解説

高麗は、王族門閥貴族である文臣が国を支配する構造になっており、武臣文臣の下に置かれていた(この文臣武臣の上下関係は李氏朝鮮でさらに徹底される)。これら文臣による武臣押さえつけに反発した武臣達が、1170年反乱起こし文臣大量に殺害する事件発生する庚寅の乱)。この後武臣勢力が新王を擁立し政権掌握する。これより高麗元に降伏するまでの間、武人政治が続く。 これは、武臣による宰相兼任武臣による軍隊私兵化・軍閥化を促した。その頂点立ったのが1194年から始まる崔氏政権である。崔氏はその武力背景に、王の廃立まで自由にコントロールしていた。事実上国家乗っ取りであり、この政権は、高麗元に降伏する1259年まで続く。 元が高麗服属させると元の命令によって崔氏の私兵集団三別抄)は解散命じられる元に降伏した高麗王は従来武臣達の私兵解散させ、新たな国軍組織し直す必要に迫られていた。これに応じられない武臣達は元に対して反乱起こした三別抄反乱)。この反乱は、1271年まで続くが元によって鎮圧される。これによって高麗両班制度事実上崩壊する代わりに台頭してきたのが中小地主層中心とした階級である。これらの階級高麗後期よりあらわれ多く農地小作農民に貸し与えそこからの収穫折半することで収入得ていた。彼らは事実上崩壊した高麗軍変わって軍隊組織し倭寇紅巾軍撃退などを行い高麗朝廷もその功績認めざるをえず、国家から特別の官職与えられる事になる。 高麗末期にはこれら官職を持つ中小地主増えていき新たな両班階級形成する事になる。文臣と武臣の対立により崩壊しかかっていた高麗末期地方制度事実上これらの地方両班によって支えられていた。 一方で武臣押さえ込まれていた文臣は、三別抄壊滅により新たな勢力形成する。これらは新興儒臣と呼ばれた。しかし、在地両班違い、彼らは収入源になる田地を必要としたため、これを提供できない高麗王室に不満を持ったこの中急進派李成桂政権後押しする勢力になる。

※この「文臣と武臣の対立」の解説は、「両班」の解説の一部です。
「文臣と武臣の対立」を含む「両班」の記事については、「両班」の概要を参照ください。

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