教育による育成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/10 05:35 UTC 版)
上層中流階級のジェントルマン化が進むにつれ、ジェントルマンと非ジェントルマンの境界条件も変化した。土地や不労所得者という要素は必要条件から、むしろある種の理想像といえる位置づけになり、ジェントルマンをジェントルマンたらしめる決定的な要素は教育となる。ジェントルマンの美徳として教養を重視する立場は16世紀まで遡ることができるが、これは15世紀末にイタリアから輸入された人文主義の影響もあり、ジェントリが武芸に秀で伝統的権威を持っていた貴族に対抗する上で教養が必要になったためである。 トマス・エリオット(英語版)は『為政者の書』を著し、ギリシア・ローマ的な西洋古典教養を備え、地方行政を担うことのできる人物を理想のジェントルマンとして描いている。その後、中央集権化が進むにつれ、ジェントルマンは地方行政のみならず、中央の宮廷においても重視されるようになるが、そのような情勢の変化に合わせて、求められるジェントルマン像も変化した。1561年に翻訳されたバルダッサーレ・カスティリオーネの『宮廷人』は、古典教養に加え、音楽、詩、舞踏、作法、礼節などさらに広い領域における知識と素養を求めている。 このような「必須科目」は家庭教師から教わるのみならず、オックスブリッジでも習得された。両大学は中世では聖職者の人材育成の場としての性格をもっていたが、ヘンリー8世やエリザベス1世によって、教会の勢力を削いで宮廷に人材を供給するべく古典研究の重視に方針転換された。養成機関としての役割自体は残るが、オックスブリッジから宮廷へ、というルートが確立されたことによって、聖俗両方の上部構造が両大学出身者によって占められることとなり、社会の上層に広がるジェントルマンの共同体が形成された。大学教育によるジェントルマンの選別という方法は新参者を共同体から排除する働きをした一方で、新参者本人はジェントルマンと認められなくとも、子や孫の代でのジェントルマン化に途を拓くものであった。特に、イギリス帝国の拡大に伴い、新規に中流階級出身のジェントルマンが増えた19世紀には、土地の取得に代わるジェントルマン化の方法として活用された。
※この「教育による育成」の解説は、「ジェントルマン」の解説の一部です。
「教育による育成」を含む「ジェントルマン」の記事については、「ジェントルマン」の概要を参照ください。
- 教育による育成のページへのリンク