政治的位相、1866年–1877年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 09:13 UTC 版)
「サンエリザリオ塩戦争」の記事における「政治的位相、1866年–1877年」の解説
1870年、フランクリンに住む有力者達が塩湖近郊の土地の所有権を主張したが、同地はコミュニティの共有資産として認識されていたため、個人の所有を主張する意見を支持したウィリアム・ウォレス・ミルズと、ヒスパニック・コミュニティの考え方を支持したルイス・カーディス(英語版)、郡政府の所有という主張を行ったアルバート・ジェニングス・ファウンテン(英語版)の間で、所有権をめぐって争いが勃発する。諍いは次第に大きくなり、ミルズを支持する集団は「ソルト・リング」、カーディスとファウンテンを支持する集団は「アンチ・ソルト・リング」と呼ばれるようになった。 しかし同年、ファウンテンはテキサス州上院(英語版)に選出されると土地の所有権を郡政府のものにする計画を推進し始めると、カーディスとファウンテンの間でも争いが行われるようになった。サン・エリザリオのスペイン人聖職者、アントニオ・ボラホ神父はこの計画に反対し、カーディスの支持を得た。1870年12月7日、ミルズの支持者であった裁判官ゲイロード・J・クラーク(英語版)が殺害されるなど、事態は混乱を極めたが1873年には共和党は地域の影響力を失い、この結果ファウンテンはエル・パソを離れ、妻の家があるニューメキシコ準州に移り住んだ。 1872年、バージニア州から民主党の復権を志すチャールズ・ハワードという男がこの地にやってくる。ハワードはこの地域のヒスパニック系有権者に強い影響力を持つカーディスと同盟を組み、地方判事として選出されることに成功した。しかし、ハワードとカーディスは郡の主導権を巡って次第に反目するようになった。 1877年夏、ハワードはオースティンの資産家である義父のジョージ・B・ジンペルマン(英語版)の名義で塩湖の所有権を申請し、塩の採取を行うすべての業者に、その費用を負担するが塩は自分のものであるという主張を始めた。これを受けたサン・エリザリオの人々はカーディスやボラホ神父の協力のもと、極秘裏に塩を採取するようになり、隣町のソコロ(英語版)やイスレタ(英語版)などを巻き込んだ地域コミュニティで委員会(juntas)を組織し、秘密会議を重ね、対応を協議した。
※この「政治的位相、1866年–1877年」の解説は、「サンエリザリオ塩戦争」の解説の一部です。
「政治的位相、1866年–1877年」を含む「サンエリザリオ塩戦争」の記事については、「サンエリザリオ塩戦争」の概要を参照ください。
- 政治的位相、1866年–1877年のページへのリンク