指宿町立図書館と今和泉村公民館図書部(1948-1954)
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1947年(昭和22年)2月、二月田駅前にあった揖宿地区農業改良普及事務所の職員らが「農民図書館」の設立に向けた活動を展開した。当時の指宿町は戦争から帰ってきた失業者であふれ、人々は生きるためにサツマイモを栽培したが、種芋の選別もままならぬうちに栽培したことから、黒斑病の発生が危惧された。同事務所はこうした黒斑病対策や作物の増収、畜産振興などの相談に応じるために連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の関与の元で設置された、鹿児島県庁農政課の出先機関であった。その所長を務めた田原迫靖は、農村図書館を造りたいと考えたが、時の指宿町に図書館を設置する余裕はなく、断られてしまった。そこで田原迫は鹿児島県立図書館の館長であった久保田彦穂に協力を求め、事務所内に「鹿児島県立図書館貸出文庫指宿出張所」として図書館を開設することにし、指宿町からも了承を得た。なお久保田彦穂とは、児童文学者として知られる椋鳩十のことであり、県立図書館出張所とすることを提案した張本人である。 そして、1948年(昭和23年)8月5日に同事務所内に指宿町立図書館が設置された。この指宿町立図書館は自前の図書は1冊も持っておらず、「鹿児島県立図書館貸出文庫指宿出張所」として県立図書館から100冊を借用し、田原迫所長の個人蔵書と農業改良普及パンフレットなどを加えた計200冊弱で始まった。事務所玄関の右側には「揖宿地区農業改良普及事務所」の看板、左側には「指宿町立図書館鹿児島県立図書館貸出文庫指宿出張所」の看板が掲げられるという不思議な状況に、道行く人から「ここは何をするところか」と尋ねられることもしばしばだったという。こうして、一方では農業相談に慌ただしく駆け込んできた農家がいるかと思えば、他方では本を借りに来た学校帰りの賑やかな子供達がいるという状況が生まれた。指宿町でも「町立図書館」の看板が掲げられた以上は予算を組まざるを得なくなり、同年の補正予算で6万円を計上した。まさに田原迫所長と久保田館長による作戦勝ちであった。改良普及事務所では夜間に農業講座や一般教養講座を開講し、講座の後には関係する図書がほぼ貸し出されるという状況が続いた。 1950年(昭和25年)7月29日には開館1周年記念事業を開催した。同年9月には今和泉村公民館図書部が発足し、既存の図書をかき集め、村内で巡回文庫を開始した。 久保田は開館記念日に講演会の講師として現れたり、図書館に人を集めるためのアイディアを提供したりと開館後も指宿町立図書館の支援を続けた。特に映画技師が映写機持参で県立図書館から派遣されてきた際には、町民を大いに喜ばせたという。
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